長岡壽一講演録(DV法と女性)

ファーラ市民企画講座
実施団体 サポート唯(ゆい)
DV法から見る女性の権利
〜〜女と男・対等な関係を築くために〜〜

2003(平成15)年7月12日(土)
山形市男女共同参画センター・ファーラ
講師 弁護士 長 岡 壽 一
      Nagaoka,Toshikazu


(司会:「サポート唯」の会員)
 今日は、お忙しい中、足をお運びいただきありがとうございます。今日の講座が、みなさんにとってDV(ドメスティック・ヴァイオレンス)を今一度考えるきっかけになり、何か1つでも実際に役立つものであることを願っています。
 今回の講座は、サポート唯で企画させていただきましたが、代表の須藤より、一言ご挨拶申し上げます。

(「サポート唯」代表 須藤路子)
 皆さん、こんにちは。サポート唯の代表をしております須藤路子と申します。本日はお越しくださいましてありがとうございます。
 よくDVという話をききますが、実際どうなんでしょうね。どういうふうになっているんでしょう。ということで、私たちメンバーが、2002年12月1日に「サポート唯」という団体を立ち上げました。唯(ゆい)という名前は、みんな唯一の存在ですよという意味でつけました。
 DV法は、平成13(2001)年4月6日に制定されまして、同年10月13日に施行されました。DVは、密室の中での暴力ということで、時には非常に悲惨な状態になります。この間も殺人事件が起きていたようですけれども。そういう世の中をうまく直して、みんな対等な関係でやっていきましょうというのがDV法だと思います。
 本日は、長岡壽一先生にお越しいただいて「DV法から見る女性の権利」という講演を、そして、民生委員や母子自立支援委員をされている方たちの事例をお聞きして、暴力のない社会づくりを目指していきたいと思います。
 本日は、お越しくださいましてありがとうございます。

(司会:「サポート唯」の会員)
 今回は、男女共同参画センターのお世話でこのような講座を開けるようになりました。そこで、所長から一言ご挨拶お願いします。

(山形市男女共同参画センター・斎藤所長)
 皆さん、こんにちは。ただいまご紹介のありました男女共同参画センター所長の斎藤と申します。
 山形市の男女共同参画センターにおいては、いろいろな角度から男女共同参画について考えてみましょうということで、市民の参画のもとで、いろいろな企画を募集し、その中で、サポート唯さんの企画を市の事業という位置づけの中で確立し、今日の講座にこぎつけたということでございます。
 山形市では、いろいろな市民企画講座、今回の場合は人権の尊重、男女平等という観点からですが、男女共同参画推進、働く男女のパートナーシップ、健康づくりという4つの観点からの講座を今後もどんどん行ないます。いろいろな企画を市報等を通じてお知らせしますので、ぜひご参加いただきたいと思います。
 なお、今日の「DV法から見る女性の権利」ですが、どうしても夫やパートナーから女性に向けられる暴力になりがちということで、このようになりました。詳しいお話は、先生の方からお聞きください。最後までお聞きいただければと思います。
 簡単ですが、ご挨拶に代えさせていただきます。

(司会:「サポート唯」の会員)
 それでは、須藤より、講師の先生のご紹介をさせていただきます。

(「サポート唯」代表 須藤路子)
 講師をお願いした弁護士の長岡壽一先生をご紹介いたします。今日、先生がお持ちくださいましたレジュメの一番最後にプロフィールがありますので、ご覧ください。
 1978年から弁護士をなさいまして、95年には山形県弁護士会の会長をなさいました。日弁連では常務理事や日弁連公設事務所・法律相談センター委員長などをなさり、ずっと弁護士活動の第一線でご活躍でいらっしゃいます。
 それと同時に、NPO法人プロネット、専門家ネットワークの専務理事をされておりまして、公益活動にも非常に造詣が深い先生でいらっしゃいます。
 それから、「ファーラ市民会議」の代表をされていたり、女性問題についても取り組まれていらっしゃいます。今回は、そのようなことから、先生に「DV法から見る女性の権利」ということを強くお話いただけるものと期待しております。

(以下、長岡の講演)
 
1 DVの位置づけ
 
 今ご紹介いただきました長岡としかずでございます。今回は、ご紹介がありましたようにテーマが決められております。短い時間でもありますので、位置づけを最初にハッキリさせて、その上で内容をお話しさせていただきます。
 今は、男女共同参画社会です。このセンターも、山形市「女性センター」から「男女共同参画センター」と名前が変わりました。いわゆる「参画」という言葉がキーワードです。そこで、この参画というのをどのように位置づけるかということです。男女、あるいは、共同というのは、イメージとしてわかります。次に参画というのは何なのか、参画によって何を実現するのか、つまり目的があるわけです。その目的をよく認識して理解した上で、その目的を実現するための参画というものを考えて、納得して活動していくということが大変大切だと思います。
 そうしますと、参画というのは、手段なのです。目的は何かというと、「共生」です。つまり、男女が性別という区別を乗り越えてお互いに理解し、共感し受容しながら一緒に生きていきましょうということです。そして、それによって実現されるのが、広い意味では幸せということです。つまり、性別を越えてすべての人が幸せになるために、共生社会というのが実現されていかなければならない。そして、そのさらに前にある道筋として男女共同参画というのが、今考えられているということです。男女共同参画については、基本的な法律もできました。その目指すべき先には、このような目的が待っているということを捉えるべきだろうと思います。

 手段を実行して実現していかなければならないし、最終的な目標・目的も実現すべきものです。しかし、手段実行の際や、目標・目的実現に近づく際には、それを阻害する、邪魔する様相というのが世の中にたくさんあります。
 今回の男女という切り口で考えますと、男女はもともと違うわけですから、その違いを分かったうえで相手を理解するということが必要です。しかし、人間は、つきつめていくと、どなたでも自己中心的な考え方しかできません。これは、すべての人に共通の性格ですから、これ自体を悪いことだといって非難することはできませんし、そうでないようにしようと思っても、困難な場面が多くあると思います。ですから、そのような人間の特徴があるということをふまえて、この問題を考えていく必要があると思います。そうでないと、結局自分と違う人に対して攻撃するおそれがあるのです。ですから、男女の問題でも、その攻撃的なことが暴力につながってしまう、その場面が、今日のDVという問題だと思います。
 いわばDVの場面は、究極の男女が理解できない場面であり、最終目的を実現するどころか、それよりもずっとずっと前の入り口にも行けずに、マイナスの部分だけが表面に出てきてしまっている場面です。それらのことを頭においていただいた上で、順番に話をしていきたいと思います。
 
2 DVの背景、現状、DV法
 
 法律の勉強をするのではなく、法律の背景とか、問題の場面がどういうところにあるのか、そして私たちが1人ひとりの独立した人間としてどのような問題を理解したり、対応の基本方針とすべきかを、それぞれの立場でお考えいただければ、それで、私の話の目的は達せられるのかなと思います。
 まず最初に、男女の違いとか、平等という観点から申しますと、先ほどもお話しましたように、言うまでもなく違いがある。そして、理念としては、平等である。それは、日本国憲法においても保障されています。日本国憲法14条には、「法の下に平等である。性別による差別をしてはならない。」と書かれています。さらに、日本国憲法24条では、婚姻のこと、男女、家庭のこと、それらについても平等であるということがハッキリ規定されています。
 そしてさらに重要なのは、これらの平等を通じて日本国憲法13条は、個人の尊重と幸福になろうとする権利というものを定めています。この日本国憲法13条が日本国憲法の中心の条文です。戦争の放棄とか、基本的人権の尊重とか、三権分立とか、いろいろな基本原則がいわれております。しかし、これらをよく考えてみると、目的は1人ひとりが人間として幸せになることなのです。幸せになるためには、戦争をしてはいけないですよね。戦争をして殺し合ったら、その人たちは幸せになれっこないですよね。ですから、戦争の放棄というのは、1人ひとりの人間が幸せになるために必要な手段なんだと考えるとわかりやすいでしょ。それから、行政とか国とか組織が大きくなりすぎると、必ず権限とか権力とかが発生します。そして、権力が集中すると独裁になってしまいます。独裁になると、その人に取り入る人はいい思いをするが、そうでない大多数の人は、しいたげられて納得のいかない人生を送らざるを得ないということになります。ですから、憲法は、国の権力を3つに分けて、それぞれがチェックし合ってバランスよく均等に統治行為がなされるように定めているのです。これも、その権力を得ることが目的ではなく、権力を制限することによって人間が1人ひとり幸せになること、そして、自由に生きられることが最終の目的です。

 このように考えると、法律をいくら勉強しても、これらは単なる手段に過ぎない。実現しようとする目標が何なのかということまで考えておくことのほうが、ずっと大切です。つまり、自分が何を実現したいのか、何をもって満足といえるのか、そこが一番大切だと考えます。そういうことを今1人ひとりが実現できる環境が整いつつあるといえると思います。しかし、その中でもやはり、伝統とか固定観念とかがあるので、それを解決したり、打破したり、融和して、その問題にまつわる人たちがわかりあえるような方法が必要になってくるということです。
 最近、「ジェンダー」という言葉が新聞などで多く使われるようになりました。ジェンダーというのは、性別の違いが何十年、何百年の歴史・伝統・生活習慣によってある程度固定観念化して男女の地位や関係を窮屈にしているものであって、それをもう一度見直すべきで、一番最初の原点、つまり人間としての原点に立ち返って考えてみましょうという問題提起です。
 そして、ジェンダーフリーというのは、性別の違いをなくしてしまおうということです。すべてについて男女の区別をせず、同じように教育や職場や家庭で扱おうということです。この考え方と、固定的な役割論、らしさというものが対立して問題になっています。このような背景を基にして、マスコミの報道とか問題や事件を見るようにすると、自分でも置かれている位置づけが分かると思います。
 国や行政では、男女の平等という観念を当然の前提にしながら、それを実現するためには何をすべきかということで、男女共同参画社会基本法という法律を作りました。平成11年6月に作られて、ただちに施行されています。国がつくる法律や、行政などにかかわる場面は、大きな目的を書いても、その目標・目的を実現する手段が何なのかというプロセスをしっかりしておかないと分かりにくくなるので、えてして本当の目標とか実現すべき本質というのをよく書かないで、手段だけ書いてしまうということがありがちです。
 例えば、毎日市長があいさつをして「平等になりましょう。」と連呼していても、実際に平等になるわけがないんです。その平等を実現するための具体的な施策をつくらなければならない。その施策の中に、例えば今言われている数値目標としてのマニフェストなどがあります。山形市の審議会や委員会の中に、市民の代表とか業界の代表に入っていただき、いろいろな角度から情報を出していただいたり、意見をお伺いして市の基本方策を制定する参考にしたり、基準づくりをするというものがあります。その審議会の委員を男女比で女性を3割以上にしようというのが前から提言されていました。地方自治体では3割、国では2割、というのが10年近く前に数値目標として出されています。そういう数値目標を今1割しかないのに5割にしようといっても、あまりにかけ離れているため絵に書いた餅になってしまうので、現実的にステップバイステップで実現していくというのが行政の1つのあり方でもあります。とても進んでいるところでは、4割を超えている県もあるそうです。山形市は29.9%ですから、今度は4割を目指し、最終的には5割に行き着くことを、期待しております。

 このように参画というのは、参加そのものに意味があるのではなく、参画を通じて実現しようとするところが何であるのかというところまで考えて欲しいと思います。そのような背景の中で男女の問題を考えますと、行政体と市民との関係とは別に、現実の社会の中では、いろいろな男女の問題が発生してきています。DVというのは、その中でも典型的な対立場面かもしれませんが、それに至る前のことがたくさんあります。
 いわゆる「セクハラ」は、相当前から指摘されています。これもジェンダーの考え方が伝統的なものから近年急激に変わったことに関連して大きな特徴のある場面です。暴力ということとも境を接する場面ですので、構造的にほぼ同じです。今ならば明らかにセクハラだと評価され批判される場面であっても、20年前は、決してそうではなかった。つまり、昔は判断基準が男性の立場からのものだったのです。その程度で文句言わなくてもいいでしょうという感じです。女性が聞けば非常に恥ずかしかったり、傷ついたり、嫌な思いをすることがたくさんある。それが問題で、やってはいけないことなんだということが、最近大きく変わってきたといえます。
 一般の考え方が変わってきただけでなく、裁判所の考え方も変わってきました。裁判所に訴えても、確かに嫌な思いはしたでしょうけれど、慰謝料支払いの対象にはならないというのが、20年前には多かったと思います。しかし最近は、女性の立場でものを見て、考えて、評価して、これは嫌な思いをしたでしょうから慰謝料を支払いなさいという判決が次々と出ております。慰謝料の額も、最初はせいぜい20万か30万が多かったのですが、最近は、何百万という大きさに変わってきている。それだけ重大問題なんだということを裁判官が認識し、判断し、評価の基準にしているということです。

 次に、DV(ドメスティック・ヴァイオレンス)のお話ですが、私自身弁護士として25年間仕事をしてきまして、離婚の裁判や相談を扱うことも多いです。多いといっても、離婚は大部分が協議離婚で本人同士の話し合いで決まってしまいますから、弁護士のところに相談に来るのは、全体の数の中では非常に少ないといえます。実際、私の経験からして、10年〜20年くらい前は、離婚の相談自体が少なかった。最近は、弁護士会が法律相談センターをつくって、どなたでからも相談を受け付けています。その中で現在1番多いのはサラ金問題で、サラ金やクレジットからお金を借りて払えなくなり、どうにかしなくてはいけない。給与が手取りで14万か15万なのに、1か月に20万もサラ金に払わなくてはいけないという人もめずらしくありません。2番目に相談件数が多いのが離婚問題です。つまり、私の事務所だけが離婚の相談件数が多いのではなく、法律相談センターでも同じような傾向があるので、全国どこでも相談件数が増えているといえます。20年前だったら、ほとんど誰にも相談しないで、仕方がないといって不満を持ちながら離婚届に署名して印鑑を押していたものが、自分が納得できるような、つまり、自分の言い分をきちんと出せて、財産や謝罪など取得すべきものを得たうえで離婚したいと考える人が多くなったといえると思います。
 その結果として、弁護士に対する相談、あるいは家庭裁判所に対する調停の申立てという手段を自ら講じていく方が増えているといえます。その離婚原因の中で一番多いのは、性格の不一致で、明確な離婚原因が1つに絞れずに、いろいろなものが総合して、もうこれ以上一緒に生活していくことはお互いにとって不幸だから別れたほうがいいと考えられるケースです。その一方で、暴力が原因というのも、数は少ないですが確実にあります。一番ひどかったのは、ガラス製の厚い灰皿みたいなもので頭を殴られて頭骸骨が陥没する大怪我をしたというケースでした。そのように負傷しないまでも、暴力行為が頻発していたというケースもあります。それから、暴力は肉体・身体に対する被害ですが、精神に対する被害、つまり、嫌がらせとか口による攻撃で追い詰められるということも少なくないようです。

 これらのことについて法律で対応するとなると、今まではDV法を除くと、離婚と慰謝料を請求するというのが一般的な民事的な解決の仕方です。刑事的には、怪我を負わせれば罪になりますから、傷害罪として訴えるということがあります。その2つが従来の典型的な法的救済方法ですが、後者は警察がなかなか普通の犯罪と同様に取り上げてくれない。昔から、法律は家庭に入らないのが原則だとか、警察は家庭に関わらないとか、民事事件として相互の間で処理すべきもので国家権力としての警察が介入すべきではないという考え方が根本にあったのです。ですから、救済を求めても、警察で相談は受けるけれども「大変ですね。どなたかに間に入ってもらうか、弁護士に相談してうまく解決してくださいね。」ということで終わりになっていたのです。それでは本当の問題解決は遠のいてしまいますし、今困っている人の救済にはならない。今困っていて人生が成り立たなくなっている人の救済のためにつくられたのがDV法です。
 DV法がつくられたときには、男女間の暴力につき制限を設けず対象として広く取り入れるべきだという意見が強くありました。しかし、最終的には、配偶者の暴力に限定されました。つまり、夫婦間の問題に限定されて法律がつくられました。しかし、よく考えてみると、恋人同士などその他の人間関係においてもあり得ることです。ですから、新しいDV法というのは、法律としての入り口に立ったというだけで、まだまだこれから広い場面での問題をこの法律が吸収して対応できるのかどうかということが、成立の当初から課題とされています。

 この法律を使ってどういうことができるのかということは、一番最初にお話したように、その不幸な状態を解決して自分が幸せになるということです。DV法は、主に、被害を救済するという視点からつくられております。ですから、法律の正式名称も「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律」とされています。しかし、よく考えてみますと、根本原因というのは、暴力をふるう男性(女性がふるうこともありますが)にあるのです。だとすれば、女性だけがその場から逃れて幸せになっても、問題の半面が解決されただけで、本当の原因を持った人はそのまま残るわけです。ですから、いまの法律では問題の本質的部分を解決できるとは決して言えないんです。この問題というのは、人間の本質に関わる場面だから、この法律で十分だなどとは決して言えません。
 本当に改善すべき場面というのは、法律で救済された人(被害者)ではなくて、救済せざるを得なくなった原因をつくった人にあるということもできるでしょう。だから、これからの課題として、どんな人に対してどんな手立てを講じていくべきか、単に懲罰とか、逮捕をしても本人の意識は変わりません。なぜ女性に対する暴力行為をしてはいけないのか、それを考えるには、そのようにされた人がどんな立場にいるのか、どんな傷を負うのかを認識させることです。目に見える傷は誰が見てもわかりますが、目に見えない傷のほうがずっとずっと大きくて深いのです。しかし、外部からは目に見えないために判断がつかない。このような問題では、PTSD、すなわちトラウマが心の中に残り、同じような場面が再発するのではないか、自分がいつも誰かから被害を受けるんじゃないかという不安を抱きながら生活するということが生じます。また、医学の進歩や裁判の累積により、このようなことが人生の障害になるんだということが認められております。それだけいろいろな判断基準が場面ごとに大きく変わってきているというのが現代社会です。
 
3 問題の解決・幸福の実現へ
 
 最後の場面になりますが、私たちがこのような男女の問題についてどのように対応していくべきか、そして最終的な目的である幸せをつくるというのは、どこに到達点があるのか、その幸せは今まで多くの人が見たことのない幸せなのです。今までこれが幸せなんだと思われていた状況の中で問題が発生したわけですから。今までにない歴史上経験したことのない幸せを私たちが協力し合ってつくることができるかどうか、これがこれからの課題なのです。
 1人では絶対につくれません。では、誰かがやってくれるんでしょうか。誰に頼ればいいのでしょうか。今まで頼ってきたのは誰ですか。時代を分けてみると次のようになります。
 @最初は「G」(government、国や自治体などの行政)が私たちの幸せをつくるという時代です。国や自治体がしっかりしていれば、そこに暮らしている私たちは幸せになれるという時代です。A次に「P」(profit、営利団体、簡単にいうと会社)が私たちの幸せをつくるという時代です。会社が社員の面倒を見てくれて、給料を払ってくれるし、様々な福利厚生も提供してくれる。会社に所属していれば自分もその家族も幸せになれるという時代です。この第一段階も第二段階も、いわば他人頼りです。どうですか、今までそういう感覚できていませんか。これらの反省を踏まえて、次の時代のあり方、新しい価値を考えて見ましょう。
 そこで、B「N」というのは、nonといことです。すると、NGOとかNPOという言葉になります。Oというのは、organizationということで、組織です。つまり、1人ひとりの個人が自分で行動しようとしても、実際には力にならないし、頭の中で分かったとしても実際の活動・運動にはいたらないことが多いのです。そのために組織をつくります。組織をつくって、その人たちが一緒になって情報を出し合い、力をあわせて1つの目標を実現していこうとする、そういうことができる時代が現代なのです。もちろん国がなければ我々の幸せはないし、ちゃんと収入を上げられる会社も必要です。その上で、それだけに頼らず、自分たちが主体的に別の行動をしていきましょうということが、私たちに与えられている課題、時代の要請であるわけです。そのような行動を自分自身ができ、そして人がやっていることを認め合えるかどうか、ここが最も大切なことだと思います。

 先ほど一番最初に、「サポート唯」という団体をつくったということをお聞きしました。このサポート唯もNGO、NPOの1つです。これからどのような活動をされるのか、わたしも大変期待して、関心を持ち、できるだけ参画させていただきたいと思います。
 では、これで私の話を終わります。ご清聴ありがとうございました。


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