長岡壽一講演録(法と倫理)



  山形市倫理法人会モーニングセミナー

法 と 倫 理

2004(平成16)年6月29日(火)午前6時30分
山形市 オーヌマホテル
講師  弁護士 長 岡 壽 一(倫理法人会会員)
                 Nagaoka,Toshikazu


 1 自己紹介


 おはようございます。私は、山形市蔵王倫理法人会の会員ですが、自分自身の出席率が半分くらいなので、本来、この場所に立たせてもらえる立場ではないのですが、お呼びがありましたので、お引き受けして参上した次第です。
 私は、昭和53年から、山形市内で弁護士をやっております。その前は、中村恒一会長からご紹介ありましたとおり、明治大学を卒業し、その前は、寒河江(さがえ)高校を卒業、さらにその前は、西村山郡朝日町の西五百川(にしいもがわ)中学校を卒業いたしました。今日まで、53年間生きてきている、というのが私でございます。



 2 本日の講話の概要


 今日は、みなさんに、私の人生のなかで何をお伝えしたいのかというと、法律の考え方における知識をお話しするのではありません。法律というのは、すごく難しいものです。1時間聴いたから判るわけでもありません。昔から西欧では、ドイツを中心に「プロフェッション」という言葉を用いており、プロフェッションというものの典型・代表に3つあると理解されています。ひとつは神職です。神に仕える者です。もうひとつは、医師。そしてもうひとつは、法律家です。
 この3大プロフェッションというのは、ものの考え方や行動パターンが、短期間の勉強や訓練で身につくというわけではないのです。それだけに、知識としてそのような部門を勉強しようとして、あるいは、本を読んで判ったと思うのは、ほんの一部しか判っていないか、判ったつもりになって本当は間違っていることが多いのです。ですから、今日は、法律の元になっていると思われる考え方をお知らせして、そして、私たちが日常的に行動したり、判断したり、あるいは評価したりする規準というものを、別の角度から整理して、それぞれの人が自分なりの体系を立てているのでしょうが、それをもう一度確認していただく契機になればいいと思っております。



 3 さまざまな規範


 まず、今日、この部屋に私も含めて30人ほどの方がおられます。これは、人間がここにいる、存在しているというありのままの姿です。これは、規範というものと関係なくここにいる、ある、という状態です。しかし、ただ単に結果としてここに人間がいるわけではなく、私たち一人ひとりが目的を持って、意識的にこの場所に自分の体を運んできたわけです。そこに、ひとつの規範というものがありうるわけです。つまり、人間は、ただ単に存在するのもではなく、規範的に意識を持って、主体的に体を動かしている。それを頭の中で支配しているのが、人間の行動というものなのです。
 そこで、規範のなかにどのようなものがあるかというと、その一つに法律というものがあります。これを法規範といいます。それから、倫理というのも、規範のひとつです。その他にどういうものがありうるかといいますと、例えば、宗教の教えのなかでどのような場面でどう行動するかを規範とする、宗教規範というものがあります。さらには、一般に学校教育などでいわれているのは、道徳規範であります。それから、一番大きいのは、年配の方や、先輩といった年齢の高い人から教わって、自然に、知らず知らずのうちに身についている行動様式というものも、規範をかたちづくる一つだろうと思います。
 そのなかで、倫理というものが一体何なのかを常に探し求め、それを自分のなかで体系的に確立していくためのものが、この倫理法人会の目的だと思います。



 4 法律と倫理の観念


 (1) 法律の特徴


 では、このような規範のなかで、法律とは何なのかというと、かたい意味で言えば、日本の国会がつくって条文化したもの(成文法)です。その法律と倫理とがどう違うのかを、ここで考えていこうと思います。法律は、違反すると何らかの不利益をこうむる、つまり制裁があります。一番端的な例は、刑罰法規に違反すると、犯罪として、国家権力によって強制的に身体の自由を奪われ(逮捕、勾留など)、判決によって刑務所に入らざるを得ないという効果が発生することです。そのような不利益な効果と強制力があるということが、法律の特徴です。


 (2) 倫理的規範と法的規範


 これに対して、倫理とはなんでしょうか。倫理は、人としてなすべきこと、自分もそうしたいし、他人にも胸を張って勧めることができることを指します。しかし、倫理には、強制力はない。倫理に反したからといってなんらかの罰則を受けることや、不利益な制裁を受けることはありません。これが、倫理と法律の違いです。
 ただ、倫理と法律が、はっきりと、ひとつの線で明白に区分されるのかというと、必ずしもそうではありません。私が今お話している法というのは、国会がつくった法律だけではなく、それに基づき、それと同じような考え方で当てはまる人間の営みというものも含まれます。具体的に言うと、私たちは、日々経済活動を行なっていますが、それは契約によって営まれています。契約そのものは法律ではありません。しかし、契約に違反すれば、制裁が与えられます。つまり、債務不履行に対する損害賠償、契約の解除、その他の制裁があります。
 例えば、従業員の立場で、勤務する約束をしているにも拘わらず、無断欠勤を繰り返せば、懲戒という不利益な処分を受けることになります。継続的に商品を供給している取引先からの注文を、毎日のように受けているにも拘わらず、一日分納入するのを忘れてしまったとか、在庫を切らしてしまったということになると、その材料を使って商売をする事業者の仕事に影響がありますから、そのようなことは許されませんし、場合によっては損害賠償請求ということにもなりかねません。


 (3) 自由意志によりつくる規範


 このように、同じ法的な規範でも、自分自身がすすんで創っている規範もあるわけです。同じ法的な効果を生じる規範のなかには、契約や合意など、自分自身がすすんで創っている規範もあるわけです。つまり、法律は、国会という間接的な民主制のなかで、いわば人がつくった規範です。それに対して、日々自分自身が自分の意志で直接的に規範を創り、そして、人に対して約束をし、それを自分が守る。それでまた相手からも守ってもらう。社会はそのようにして秩序だって営まれているものです。
 今お話したことを当てはめてみますと、今ここに倫理法人会の多くの会員が来られているわけですが、今日ここに来ていない会員もたくさんいます。その人たちはどうなのか、ということです。ここに来ている人を倫理という面からみると、自分の意志で会員になり、自分の意志で来ていて、積極的に評価をしているわけですから、倫理に即したことです。しかし、来ない人にペナルティを課すことはできないわけです。そのような強制的な考え方になると、法的な意味合いが入ってくるわけです。倫理ではなく、法の範疇に入ってしまう。ですから、不利益な制裁を加えることによって、ここにより多くの人に参加してもらおうとするのは、倫理的なものの考え方ではなく、法的なものの考え方に近くなります。


 (4) 責任と義務


 では、自分が参加している会には来ても来なくてもいいのか、倫理の範疇なのかというと、必ずしもそうではありません。例えば、今日の会場を運営する人は、他の人よりも先に来なければ、この会そのものが成り立ちません。その役割を担った人は、来るのが義務です。責任と義務があるわけです。さらに、この会場に入るためには、オーヌマホテルの従業員の方が我々よりも前にこの会場に来て、設営をし、すべて点検をして、我々を迎え入れてくれるわけです。その人たちはどのような立場にあるのかというと、これはオーヌマホテルという会社と雇用契約を結んでいるわけですから、必ず来なければならない。ですから、この場面は、倫理ではなく、法的な義務だということになります。では、すべてが義務ということでおさまってしまうのかというと決してそうではなく、義務を中核とし、さらにやれることを考えながらその仕事に従事し、人に対するサービスを提供することが、そこを利用する人の満足度につながるわけです。それらが、義務ということと、義務を超えた自己実現を目指すことと、それぞれの人間の考えに依存するあるべき姿だろうと思います。



 5 倫理規範は法規範を包摂する


 (1) 倫理という言葉の使い方


 さらに、具体的にお話をしますと、最近、いろいろな場面で倫理という言葉が使われることがあります。例えば、政治倫理という言葉は、いわゆる政治家が不祥事を起こすと、「もう一度政治倫理を見直して確立しなければならない」などと言って使われることが多いですね。それから、企業の不祥事で情報を隠して、人に迷惑をかけているということがあると、これも企業倫理という熟語で、ひとつの規準に違反しているとの批判が行なわれることがあります。
 しかし、これらの場合でも、自分の頭でよく分析してみなければいけません。新聞などで企業倫理とか、政治倫理とか言われているものが、本当の意味で倫理なのか、ということです。それを検討してみましょう。


 (2) 法律違反と倫理違反


 法と倫理について、境界線があいまいな部分もありますが、違う概念で、違う規範ですということをお話しました。
 では、政治家が収賄した、選挙法に違反した、これが倫理違反なんですか。ある自動車会社が欠陥を隠していて、安全だということで売り続けた、これは、倫理違反なのでしょうか。違いますよね。これは、明らかに法に違反しているわけです。ですから、制裁が伴うのです。贈収賄とか、公職選挙法違反をした人に対しては、政治家であろうが業者であろうが、刑罰をもって臨まれる。つまり、重大な制裁があるのです。これは、倫理の範疇ではありません。法律の範疇です。
 それから、つい最近もある自動車会社については、元の社長を含めて、多くの人たちが逮捕されたり、強制捜査をされております。これは、警察や検察が倫理を求めてやっていることなんでしょうか。違います。警察や検察が倫理違反だなどと言って人の生活に介入してきたら、かえって不安な大変な事態になります。つまり、私たちの自由が脅かされるし、常に警察が自分の周りを見ているのではないかと不安になってきます。そのようなものを昔から警察国家などと言っております。そんな警察の役割は、現代の国民主権の社会ではありえないわけです。
 警察と検察が強制力をもって捜査をするのは、倫理の確立を求めてではなく、法律のあるべき姿を求めてやっているわけです。それが彼らの職務なのです。ですから、その企業倫理といわれているものに違反した人たち、あるいはその企業というものは、法律に違反しているのであって、倫理だけに違反しているとしてあいまいにされるべきではないのです。もちろん、正確にいうと法と倫理は択一的に位置づけられるものではありませんが、正確な表現としては法律問題と倫理の場面とを分けて、言葉を選んでいただきたいという思います。


 (3) 倫理の中の法


 さらに、このお話のなかで、法と倫理がどのような関係になるのかを、頭の中で思い描いていただきたい。つまりどっちが広い概念かというと、倫理ですよね。法律というのは、そのあるべき姿のなかで、やってはいけない行為のなかでも、限定されたごく特定のものについてだけ、法律の規範として作り上げて、そして、強制力や制裁を与えるという場面です。倫理は、それらを広く包摂するものです。図に描くのはなかなか難しいですが、例えば地球というものがあって、太陽系があって、そして銀河系があって、全体の宇宙がある。仮に地球が法規範だとすると、それらをとりまく、広く包括するものが倫理であり、地球(法律)そのものも倫理規範のなかに位置づけられるということになります。そういう点でいえば、政治倫理に違反したということは、必ずしも間違いではないでしょう。しかし、わざと問題を曖昧にして、ごまかしているのではないかということもいえます。


 (4) 言葉の本質


 日本の権力者や官僚、あるいは頭のいいリーダーたちは、言葉で本質をごまかして表現していることがたくさんあります。例えば、日本は、昭和20年8月15日に、無条件降伏をして、戦争に負けたわけですね。これを敗戦と言わないで、終戦といっております。そのとおりなんですが、終戦だと他人事ですよね。主体性がない。つまり、歴史を直接評価して、自分たちの歴史なのだということを見定めようとする気持ちが欠けている。さらに、引き続いて、日本は、法的には占領されたのです。ですから、マッカーサーは、占領軍の総帥なのです。彼らは連合国の占領軍なのです。しかし私たちは子どもの頃から、そのような言葉を教わっていません。進駐軍と言っていました。これもごまかしです。
 それから、近くにおいては、アメリカとの間で貿易摩擦というものがありました。アメリカではどのように言っているかというと、トレード・ウォー(Trade war)と言っており、つまり、貿易戦争という言葉をはっきり表現しています。貿易摩擦という言葉を誰が作ったのかは分かりませんが、意図的に問題状況と本質を隠すようなことがあるのです。
 倫理もまた、そのような意味合いで使われることが少なくないのです。新聞報道を見る場合には、活字を見て、じっくり考えることができます。ラジオやテレビだと、ニュースが次々と繰り出されるため、3分前に見たものが何だったのか忘れてしまいます。まるで考えさせないで忘れるように仕向けているのではないか、と疑問に思うくらいの番組編成がなされています。つまり、自分で問題の本質を理解するということを阻害する結果になっているのではないかと思われます。ですから、新聞の方がじっくり読めますし、考えられます。その場合も、ただ単に読み流すというのではなくて、キーワードの意味をよく考えることができます。



 6 「不倫」の法律的効果


 さらに法と倫理を考えてみると、倫理の倫に対して、不倫という言葉があります。一般に使われている不倫という言葉は、配偶者のいる男女のどちらかが、別の異性との間で、性的な関係を持つという意味で使われます。
 では、この不倫という場面を、法と倫理に当てはめてみますと、どうでしょうか。まず、倫理違反であるとは言えますね。しかし、その時代、その社会、国によっては、倫理違反にならないところや時代もあるわけです。ですから、絶対的な意味での倫理規範違反ではないと言えるでしょう。
 では、現実的に今の日本のなかで考えてみますと、法律的にはどんな効果が発生するのか。民法では、第770条という条文がありまして、そこには、不貞行為があれば離婚原因になる、とされております。つまり、不倫行為をはたらかれた相手方の配偶者は、婚姻関係を解消するという請求をすることができる、と書いてあります。その限りでは、離婚請求をされると、最終的には裁判所の離婚訴訟の判決で、別れたくなくても、意志に反して離婚しなさいとの判決が出されることになります。
 刑事法の側面から見ますと、不倫の場合、警察がそれを捜査して、裁判所が処罰をするといった犯罪行為にはなりません。戦前の刑法では「姦通罪」というのがありまして、妻が、別の男性と不倫関係を持つと、罪になるとされた。しかし、夫が同じことをしても罪にならなかったのです。戦前は同じことをしても、女性のほうが行動を制約されていたんですね。今はそういうことがなくなりました。



 7 規範を超越した観念は


 (1) あるべきことと、現にあること


 では、いわゆる不倫を倫理の面から評価すると、やってはいけない、やるべきでないことで、それについて批判されることはありますね。しかし、不倫をしたからすべてその人は離婚しているのでしょうか。必ずしもそんなことはないですね。不倫しても、それが分かったとしても、夫婦関係が続いている人のほうが多いと思います。つまり、夫から不倫された妻の立場でどう考えるのか。逆に、妻が不倫したその夫の立場で、どのように理解・評価をしているのかということが、法と、それから倫理と、それからさらにもっと考える規準というものがあるのか。
 そう考えてみると、多くの人が不倫をして、あるいは訴訟してまで離婚することができる立場にあるのに、それを選択していないのはなぜなのだろうか。それは何に基づいているか、と申しますと、法的にもやってはいけないことだし、倫理的にも責められ、良いことがないわけですね。しかし、受け入れているのは、法も倫理も超越した、全体として覆いつくすような、いわば全宇宙的なものとして、人間の行動の価値基準をつくる何かがあるわけです。


 (2) すべてを受け入れる「愛」


 私は、それを言葉でいえば、「愛」だろうと思うのです。愛というのは、こうあるべきだという価値基準を超越して、すべてを受け入れるというのが、愛だろうと思います。
 例えば、犯罪を犯した人は、警察に捕まります。新聞で見る限りでは、とても悪いことをした人だと評価されます。しかし、その家族の人はどうなのでしょう。犯罪を犯したからといって、それだけの理由ですぐ勘当だなんて対応をする家族は、私が今まで20数年間、刑事弁護を務めた中では、ひとりもいません。みんな自分の家族が犯罪を犯し、警察に捕まったとなれば、その人のために他の家族がいろいろな手立てを講じます。弁護士のところに相談に来たり、頼みに来るのも、その家族です。被害を弁償したり、被害者に謝ったりするのも家族です。本来は、そんな義務はないですよね。だけど大部分の人が実際にやっている。
 その行動を言葉で説明すると、何という概念になるか。それが、愛ではないか、と思うのです。一部、聞きかじりですが、聖書でも自分に対して迫害があったとしても、それに敵対するのではなく、すべて受け入れ、最後には潔く自分の死をもって、行動で顕していく。それを考えると、日常的に私たちがやっていることの中で、倫理でもなく、規範でもなく、まして法でもない、愛というものが、家族の中、職場の中、それから社会の中でも、意識されない規準として私たちを支配しているのだと思っています。



 8 幸福を追求し、実現する


 (1) 「安心」は目的か?


 最後に、今日お話しした中から発展して、考えていきたいと思っていることをお話しします。それは、生きる目的というものが何なのかです。今、選挙活動(参議院議員の通常選挙)が行なわれており、選挙公約が発表されています。それらを、具体的なことではなく、全部統合し、ひとことで言うなら何なのだろうか。多くの政党の公約などを見て、ひとことで統括すると、我々国民に安心を与えることを約束しています。安心の安という文字が付く言葉はたくさんあります。安全。安定。安とうのは、私たちが求めているものに間違いないのです。政治がそれを提供することに努力していきますというのが公約なのです。
 しかし、私は、それは人間が生きる目的ではなく、目的を実現するために必要な基盤・ベースであると理解するべきではないか、そのベースの上に立って、自分の人生で何をつくろうとするのか。これこそが、人生の本当の目的ではないのかと考えています。
 しかるに、その人生の目的が誰からも提案されない。これも、頭のいい人は判ってるのだろうと思うのです。リーダーの人たちはそれが判っているにも拘わらず、それを発表すると、自分たちの現在の地位が安定しなくなる。だから黙っているのです。そのために、全員にとって異議の出ない「安」というところに、政策を結びつけているのではないかと思います。


 (2) 個人の時代――幸福追求を


 最後に私の結論として、人生の共通の目的は、「安」ではなく、幸せ、幸福だろうと思うのです。幸せという価値が、安心の上に築きあげられるべき目的だと思います。その幸せのなかみは、人によってみんな違います。みんな違って当たり前ですね。しかし例えば、戦争しているときは、みんな違うことはあってはならなかった。すべての国民が、同じ価値基準で動かなければならない時代が続いていました。
 今、それを超えて、経済的にもすべて満たされ、その上に築きあげられるのが精神的な価値、幸せであると思います。憲法に第13条という条文がありまして、これは憲法のもっとも本質的な規定だと思います。戦争放棄よりも前に。それは、国民が、一人ひとり個人として尊重され、幸せになろうとする権利、幸福追求権を最大限に保障するということです。これが憲法の本質だと思うのです。幸せになるために戦争をやってたのでは、ついに幸せにはなれません。また、誰かが独裁政治をしていたのでは幸せにはなれませんよね。だから、国民主権が必要です。一人ひとりの基本的人権が最低限度保障されているわけです。
 この、3つ、基本的人権の保障、国民主権、戦争放棄が憲法の原則だと言われてますが、さらに本質を追求していくと、そうではないのです。それらはいずれも手段ですね。目的は、一人ひとりが幸福になることなのです。そのための価値体系、行動規範というものを、私たちが自分の問題としてつくりあげていくこと、それがこれから求められる個人の時代ではないかと思います。そして、それが実現できる時代が、今来ているのです。
 
 ではまたお会いできることを楽しみにして、今日の講話を終わらせていただきます。熱心にご清聴いただきありがとうございました。


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