長岡壽一講演録(情報公開と企業)

1997(平成9)年7月23日(水)
山形市 山形商工会議所会議室
講師  弁護士 長 岡 壽 一
Nagaoka,Toshikazu

山形商工会議所 議員懇談会(講演)           
 
情報公開と企業活動について

 
 ご紹介いただきました「ながおかとしかず」でございます。
 今日お配りした資料について、まず確認をさせていただきます。今日のお話の主題についてのレジュメと、それから山形県公文書公開実施要綱の書類が2枚になっております。それから朝日新聞の記事です。そのほか山形県弁護士会のパンフレットなどです。
 
     山形県内の弁護士の配置状況
 
 先ほどのご紹介のお話の中で、山形県の県民性、山形県における法律についてのものの考え方、あるいは訴訟などについての対応の仕方というのがどういう状況になっているのかということを触れていただきました。が、同じ県内でも相当大きな地域差がございます。まず、今の山形県内の弁護士の配置状況といいますのは、山形市内に大部分といっていいくらい、7割の弁護士が集まっており、32名です。そのほかは米沢に2人、それから酒田、鶴岡に5人6人づつ、新庄に2人という状況です。それぞれ山形地方裁判所の本庁あるいは支部があるという関係で、そのような地域に弁護士がいるわけです。それ以外の場所には弁護士はおりません。つまり、裁判の仕事が中心になっている関係でそのような配置になっているわけです。
 そこで山形市を中心とするところが弁護士の需要がたくさんあって訴訟も多いのかといいますと、これは必ずしもそうではございません。人口比率で言いますと、東北でもこの山形の地域、村山地域と言われるところはもっとも訴訟の件数が少ないところです。統計的に見てみますと、東北六県で山形県が一番少ない。その中でも、山形地方裁判所本庁の部分を見ますと、人口割にすれば県庁所在地では一番少ないといえます。
 
     裁判事件の地域差
 
 これに対して置賜地区といわれる米沢、赤湯、長井、ここにそれぞれ簡易裁判所があります。25万人の管内人口規模に対して、三つの簡易裁判所があります。本庁のある村山地区には56万人おりますが、山形に一つしか簡易裁判所がありません。村山とそれから寒河江にそれぞれ簡易裁判所がありましたが、約10年前に廃止されて山形簡易裁判所に統合されてしまいました。廃止された理由は、事件数が少ないからという、裁判所側の理由で、いわば司法行政改革の一環でございます。これに対し、長井と赤湯の簡易裁判所というのは、管内人口はそれぞれ75,000人、66,000人くらいしかおりません。つまり、村山簡易裁判所管内の北村山地区や寒河江簡易裁判所の寒河江西村山地区の人口と比べたらずっと少ないんです。であるにもかかわらず、簡易裁判所がずっと残っているんです。これは事件数が多いからなんです。それだけ村山地区の住民の考え方、法律や訴訟に関するものの考え方と、置賜地区の方々の考え方、実際の裁判所利用の行動というのは現実にそれだけ大きく違うんだということです。
 ちょうどその統廃合の問題があった時に弁護士会の副会長をしておりましたので、簡易裁判所をなくしてしまうのは住民の利便にも反するし、弁護士会として反対だということで調査をいたしました。その際に50年前にどうだったのかということも調査いたしました。昭和5、6年ごろにどうだったのか。やはり、そのころも同じように、裁判事件数が村山は少なくて置賜は多いということなんです。今に始まったことではなく、あるいはサラ金とかそういう時代の一時的な需要の多い少ないではなく、県民性のなかでも地域の住民性がなせるわざではないかなと感じた次第です。
 
     「要綱」と「条例」
 

 ところで、今日の主題は情報公開ということですが、これについても、ものの考え方、県民性というのが如実にあらわれているひとつの素材としてみることができるのではないかと考えます。たとえば、現在都道府県レベルでいいますと、情報公開の条例がないのは山形県と愛媛県のふたつだけです。その他の45都道府県には、全て条例があります。今日お配りした二つめの資料の、「山形県公文書公開実施要綱」というのが制定されたのが平成4年10月2日となっております。このころ全国の都道府県において一斉に条例がつくられたんです。しかしながら、山形県では、条例をつくらなかったんです。
 ではなぜ「要綱」として、「条例」にしなっかったのか。どちらの形式でも中身が同じだったら効果も同じでしょうというふうに、当時の板垣清一郎知事も今の高橋和雄知事もおっしゃってますが、法的観点からはぜんぜん違うんですね。条例と要綱というのはまったく違うんです。何が違うのかというと、条例というのは、地方公共団体である山形県つまり行政機関と、住民である県民あるいはその他の利害関係をもつ企業やその他の個人、県民以外の個人を含めて、そういう人たちとの権利関係を規律する、それが条例なんです。山形県という行政体と、国民、県民、住民との権利関係を規定するのが条例です。しかしながら、要綱というのは、これは県知事が自分の部下である職員を規律するの形式の規範なんです。つまり、これは県庁内の内部規律でしかないわけで、住民に情報公開の権利を付与するものではないのです。
 これら二つをどのように制定するのかという、制定過程の手続きをみてみますと、条例は、地方公共団体の議決機関である議会、県議会の議決を得て作られます。しかし、この要綱というのは県知事限りで、県知事がこのように作りますといえば、外部機関の誰からも意見を聴かずに作られてしまうんです。議会は何も言う立場にありませんし、審議もしていないわけです。つまり、県民とか事業者側から見てどのようなあり方が好ましいかという議論はまったくなされていないということです。
 このようなことでは住民県民の情報公開に関する権利というものが山形県では認められていない、その他の全国の自治体では全部権利とされているのに、この山形県では住民の権利がないということになってしまいます。これだけを考えてもおかしいじゃありませんか、隣の県にいけば権利があるのに、山形県に入ってくるとあなた方は権利がありませんというのはおかしいじゃありませんかというのがまず第一の根本的疑問です。
 
     高橋知事の約束
 
 それで、昨年(1996年)の5月、高橋知事は、「情報公開の条例を新たに作ります。今年の12月までには条例案を議会に提案します。」と言われました。ところが、実際には制定作業はほとんど進められていなかったんです。そして、今年(1997年)の1月26日に知事の選挙がありました。その選挙のときにも、「条例をつくります。2月の県議会に提案します。」というのが高橋知事の選挙公約でした。はっきり新聞記事にもなっています。
 そしたら、27日、つまり当選した翌日の夕刊に知事のインタビュー記事がのっていました。「条例は作らないほうがいいと思う。要綱で十分だと思う。」という発言に戻ってしまいました。その理由は、条例にしますと、先ほど説明しましたように住民の権利があるわけです。県民の権利が出てくるわけです。情報を見せてくださいと求める権利です。そうすると、県知事がそれを拒否すると訴訟になってしまう。そういう訴訟になるような原因といいますか、素地をつくるのは好ましくないから、要綱のままでいいと思うという言葉を、はっきりこれも活字になっておりますので、言われております。
 
     知事の基本姿勢と疑問
 
 そこで、その前々から、山形県弁護士会としましても、情報公開条例のあり方というのを検討いたしまして、それで県知事に対しても前年から意見を述べておりました。書面でこのような条例が作られるべきだという意見を述べました。それから、県の担当者である総務課との間でも、研究会といいますか、数回の意見交換会をしておりました。そういう矢先に、知事が当選した途端に、条例を作らないほうがいいという発言をされたものですから、弁護士会としましてもこれはどういうおつもりなのかということで、会長がすぐ県知事に面会を求めて真意を質しまして、そしたらそういう趣旨では決してないんだけども、じゃあやはり作りますというようなことをまた言われました。そして、その後ご存知のように月に1回くらい懇話会というのを開いて、いろんな方のご意見をお聞きして、そしてその意見を集約していく中で条例を作りたい、そして今年中には成案を作りたいというふうに対応が変化してきました。
 つまり、この経過を見ますと、昨年(1996年)の5月あたりに今年(1997年)中に作りますと言ったのが丸々一年以上延びてしまっているわけです。そして、この期間に何があったかと言いますと、いわゆる食糧費の問題、官官接待の問題、それからカラ出張とかカラ宿泊の問題という実態が、次々と県内外で問題提起されて真相が明らかになりました。これに対して山形県では、そのような疑問や問題は一切ありません、一件もありませんということで、まったくそのような疑問疑念を持たれるような不始末はありませんということで終始しておりました。それから、監査委員会も、監査を詳細にしましたけどもなにも不正はありません、適正です、とこのように結論づけられたわけです。
 
     市民オンブズマンの運動
 
 だけども、果たしてそうなんだろうか、新聞などでみる限りの情報であっても、どう考えてもわれわれの常識に反するなという疑問と疑念は、100人いれば100人が持っているんじゃないでしょうか。ただ、ここで私が言いたい、やりたいということは、人のあるいは行政の今までやってきたことの間違いを糾弾して、誰かをとっちめようとか、そういうようなつもりは、私自身ではまったく持っておりません。
 それから私も参加しております「市民オンブズマン山形県会議」、これは弁護士が9名と司法書士が3名の12名でやっておりますけれども、そのように何らかの、たとえば政治的なものの考え方とかなんかに利用しようとか、今の知事に対立して政策に反対しようとか、そういうつもりはまったく持っておりません。ですから、各メンバーは政治的な思想信条にかかわらず参加しているものです。それから、自分たちが会費を出し合って活動しているものです。それをやっても経済的メリットは何にもありません。そういうことで、ある意味では趣味の市民運動かもしれませんけれども、ある意味では使命感を持って、多くの県民の皆さんにもっと問題意識と疑問を持っていただきたいし、真実はなんなのかということを知ってもらいたい、というのがひとつ。それから、それをきっかけに、最終目的は行政と市民県民との風通し、情報の交流、それに基づく信頼関係を築き上げてお互いに一番いい行政をやってもらいたい、そしてその結果県民が幸せになるような方法を講じてもらいたいと考えている、これがオンブズマン運動の最終目的です。
 私は、そのような考え方から、いろんな発言や行動をしてきております。ただ、私自身は、県知事と対決をして訴訟をやって打ち負かしてほらみたことか、というようなことはしたくありません。それで、オンブズマンのメンバーがいま住民訴訟をやっていますが、私はその当事者としては参加をしておりません。訴訟には。
 私は、40歳までの11年間、青年会議所でまちづくりの運動を一生懸命やってきました。今もそれに引き続いていろいろな市民としての活動をしているつもりです。そこで大事なのは、誰かと対決してやり込めてねじ伏せて自分がこれをやるということではなく、みんなが一緒になってひとつの目的に向かって、つまり、私たちが幸せになれる、企業も繁栄できるとこういう目的に向かってみんなが協力していくこと、情報を共通にしていくことだろうと考えています。ですから、このような私の信条に照らして、自分自身で納得できないようなことについては行動を控えている部分もございますが、その辺の趣旨もご理解いただきまして、今日のお話をお聞きいただければありがたいと思っております。
 
     情報公開法・条例と市民の権利
 
 そこで、まず、国の情報公開の進め方がどうなのかといいますと、国自身も情報公開法という法律を持っておりません。それで、昨年(1996年)の12月、行政改革委員会が情報公開法要綱案というものを作って公表しました。そして、これに基づいて、いま立法機関である国会において、行政改革委員会の意見を踏まえて、法案作りがなされております。
 それで、情報公開というのが何に基づいて行なわれるのかというのが一番の出発点として問題となります。これは、国民、事業者を含めて、広く市民という言葉でこれから言いますが、その市民の知る権利、情報を知る権利、求めようとして得たい情報を公の機関から求めることのできる権利、それに基づいているということです。ですから、その知る権利を、具体的にどのような場面で、どのような情報を、どのような手続きに基づいて提供するのか、というのを定めるのが、情報公開法という国の法律であって、また、条例、山形県の条例でもあり市町村の条例でもあるわけです。そして、いま山形県の条例も制定作業中でありますし、また、山形市においても条例の制定作業が行なわれております。
 このように、各地方自治体において、情報公開条例がつくられつつあります。そのようにして条例がつくられて初めて、市民の権利、知る権利というのが現実にどのような内容として位置付けけられるのか、ということが決まってくるわけです。これがないと、あくまでも、見せてくださいと申し入れても、見せられませんよと言われたり、見せてやるけどありがたく思えと、行政機関から市民に恩恵的に与えられた情報という形になるわけです。権利として、国民なんだから権利があるんだということではなく、見せてくださいお願いしますと頭を下げて、じゃあ見せてやるよ、ありがとうございました、大変感謝いたしますというような形になってしまう。そこが条例と要綱の違いということです。
 現在まですべての都道府県では、山形県と愛媛県の二つを除いては、条例による市民の権利を認めているわけですから、山形県でも当然認めなければならない。ただし、先ほど言いましたような理由によって、先の板垣知事も今の高橋知事も、条例をつくると権利を認めてしまうことになり、権利があると訴訟になってしまう、それがいやだということで要綱にしちゃったということ。それから今もできるだけ条例をつくるのを遅らそうということで、政治的な判断でのびのびになっているのが現状です。
 
     情報公開請求の目的
 
 このような状況の中で、情報公開といいますと、食料費であるとか出張費であるとか、一部の方から批判を受けるのは、そういういわば重箱の隅をつついて人のあげ足取りをやって楽しんでいるのがオンブズマンじゃないか、というような言われかたもするようです。現象面だけから見ますと、そういう批判も確かにそのとおりだと思われます。私自身も若干そんな感じがします。
 しかし、それをひとつの取っ掛かりにしないと、次の重大な問題に近づけないのも事実なのです。なぜそんなことをせざるえないのかと言えば、食料費の使われ方とか、それから出張旅費の使われ方とかに一切疑念や問題はありません、という知事の説明が本当なのか。たとえば、この二つの問題、食料費と出張費についてオンブズマンは2年前から情報公開を求めています。これを求めただけで、山形県の予算が十数億円減少してこの無駄遣いがなくなっています。その結果、他方ではたとえば飲食店関係などで収入が減ったとも言われていますけれども、私は、これはその批判は本末転倒といいますか、逆だと思うんです。仮に十億円減ったならば、そのうちの一億円でも料亭新興の補助金に使ったらいいじゃないですか。あるいは、市民を招いて料亭文化の振興基金にでも使ったらいいじゃないですか。そんなに情報見せてくれと言われただけでガタンと下げざるをえないくらい不必要で疑問のある使われ方をしてきたのであれば、それだけ無駄金を使っていたのであれば、そのくらいのこれまでと違う発想で臨んでいただいたほうがよいと考えます。
 また半面において、県の行政を担当しておられる職員の方々の立場においても、もう一回仕切りなおし、出直しといいますか、今までのことは水に流して本来のあるべき行政を実行しましょうという方がすっきりするでしょう。ところが、今は引き続きずっと職員の士気や民間の景気観が停滞しているわけです。現に問題があるように見えるけれども、これは停滞しているのでもないし、問題があるからでもありませんと言って開き直っている現状が見えます。ですから、一度きれいに水に流してみんなが出直す、そして納得できるようなお金の使われ方、情報の開示というものがなされるべきではないのかと考えております。そうすれば、私たちも納税者として市民として納得できる生活をできますし、もっともっと豊かで満足のいく幸せな生活が保証されるはずだと思います。
 
     公開された情報からの疑問
 
 次に、それに関連して、監査請求とか住民訴訟ということについて、私も直接当事者としては関与しておりませんけれども、法律家としての知識や立場上知りえたことをもとにお話させていただきたいと思います。
 今市民オンブズマンが住民訴訟をやっているその対象は、山形県職員の出張費と宿泊費についてです。この出張旅費、宿泊費についても、いわゆるカラ出張といわれるような、実際には行ってないけれども行ったことにして、その公金を払ったことにして、そのお金をどこかにプールして何か別の用途に使っているのではないかという疑問があったわけです。このような不正は、マスコミ報道で明らかなとおり、多くの都道府県で実際にやっているわけなんです。山形県だけが一つもやっていないというのはちょっと考えにくいんじゃないかと思いまして、まずその点の情報公開を求めたわけです。
 ところが、現在の山形県の情報公開は、先ほども説明しましたとおり、恩恵的に見せてあげる、差し支えない範囲で見せてあげる、というレベルのものですから、全部は見せてくれません。見せたくない問題のあるところには紙を貼ってその上からコピーして、あるいは黒く塗りつぶしてそのコピーをくれるんです。ですから、大事なところはほとんど何も載ってないんです。そのような情報を見ても、直ちにはおかしいと判断もできません。これカラ出張じゃないか、とも断定できません。たとえば、赤湯温泉に出張しましたといっても、赤湯温泉のどこの旅館なのか書いてないわけですから、調べようがないわけです。反面調査のしようがありません。ですから、その情報だけではこれ嘘でしょうとも指摘できません。
 だけども、私たちがおかしいということをなぜ言わざるをえないかというと、たとえば、長井にある建設事務所だったでしょうか、そこのひとつの課に23人くらいの職員がいたんです。その人たちが、一年間で一人平均23回、山形県内の温泉旅館に泊りがけの出張をしているんです。平均です。一人平均一年間で23回、それも山形県内の旅館、温泉です。それは、たいがい置賜地方の温泉です。なぜ、そんなところに長井市にある建設事務所の職員が置賜地方の赤湯とか白布高湯とかそういう所の温泉に、なぜ23回も泊まらなくてはならないんですかという疑問です。常識的にそんなことをしているということ自体がおかしいでしょう。もし、本当にそんなことをやっているんだとしたら、そんなことやる必要ないじゃないかって言いたいです。泊まる方の職員だって大変でしょう。すぐ近くに自分の家があるのに、月平均二回もそこに泊まらなければならないというのでは、家族にだって説明つきませんよ。
 それから、もうひとつ新庄市にある県の出先機関の例ですと、新庄から一年間に5、60回、山形市内に出張、宿泊を伴う出張をしている。出張先はどこかというと、「松波」と書いてあるんです。つまり、山形県庁です。新庄市にある県庁の出先機関の職員が、年間5、60回県庁にきている。その一日一日が泊を伴う出張なんです。それで、一泊の宿泊費と、それから出張の旅費、交通費が出ているわけです。だけども、これまたよく考えて推理してみますと、その職員の多くは山形市内あるいはその周辺に住んでいるんじゃないのかと、つまり、山形市内に住んでいて新庄に通っている人が多いんじゃないのかと推測するわけですね。その人が、自分の家の近くの県庁にきて仕事をして自分の家に泊まって、翌日また新庄に通勤するというケースが相当あるんじゃないかなと。これも明確な根拠資料のない勝手な推測かもしれませんよ、裏づけは何もありませんから。しかし、そういう推測をしても決しておかしくはないような内容なんです。それくらいのおかしさが方々にあるんです。不完全ながらも情報を見せてもらって調べてみると、いくらでもおかしなことが見つかるのです。
 さらに面白いことに、先ほどの長井の事務所では、県内の温泉旅館の宿泊が何十回も行われているけれども、新庄ではそういうのは一件もないんですね。これをまた推測して、推測だけで申し訳ないですけれども、つまり裏金作りの手段方法がその課ごとにひとつのパターンで決まってるんじゃないのかな、というような疑問と推測を勝手にせざるえないような問題が次々と出てくるわけです。
 
     監査請求と住民訴訟
 
 これはどう考えてもおかしいんじゃありませんか、ということで、山形県の監査委員に監査をしてもらいたいということで、監査請求をしたわけです。
 そうしたところ、監査委員からは、すべてを調べました、そうしたところ一件もカラ出張やカラ宿泊と指摘されるものはありませんでした、すべてが適正に処理されています、という答えが返ってきたわけですね。私たちは、過去の問題があるのできれいに清算して出直してもらいたいと思っていたんだけども、そんなことは何もありません、水に流すような問題状況は何もありません、と言われまして、そうでしたかと納得できないわけですよね。
 県側の対応がそれであるならば、必要な情報をほとんど大事なところは見せてくれませんし、こちらの県民側には見せないで、監査委員は全部見ました、その結果適正です、と言われて、ああそうですか、監査委員が調べたんなら信頼しましょうというところまでいかないですよね。それで、結局は山形地方裁判所に住民訴訟をおこして、その訴訟の中で真実はどうであったのかを明らかにせざるをえないだろう、という判断になっていったわけです。これはお互いに不幸なことだと思うんです。訴訟手続きになりますと、両者は対立当事者になります。原告と被告。それからその訴訟は、山形県自体を相手取ったものではなく、そのお金を出すことを決めた人その職員個人に対して、その個人が公金の使い方が悪かったのだから県に返せという訴訟なんです。訴訟のやり方としてやむをえません。これは、訴えられた人も、その当時その部署にいた人が個人として訴えられているわけで、これもまた大変なご負担だと思うんです。ただ、重大な疑念がまったく晴れませんから、そういうやり方をせざるえないわけです。山形県のお金、公金が不正に使われている。それは、山形県が使ったのではなくて、その職員が不正に使ったんだから使った人が県に返しなさい、というやり方です。
 それは後でお話します株主代表訴訟と同じような構造です。つまり、取締役が不正な行為をやって会社に損害を与えたんだから、会社にお金を賠償しなさいというやり方です。住民訴訟はこれと同じような構造になるわけです。そして、訴訟になりますと、行政訴訟法・民事訴訟法という法律がありますので、この法律にしたがって提出命令の申立てというのができるんです。裁判所から、この文書つまり出張命令とか出張の結果にかかる文書を出しなさい、と裁判所から県知事に命令が出るわけです。そうすると、出さざるえないですね。紙を貼るわけにいかないですから、そのまま出さざるえない。そうすれば、情報公開の条例がないから見せてもらえない部分も、全部裁判所の中に表われてくるということになります。そこまでやらないと、つまり、訴訟という手続きを経てそこまでやらないと、今の山形県では見せてあげませんよと頑なに貫き通している、その方針と問題解決の手法に対する考え方があまりに硬いわけです。それを確実に見るためには、訴訟までやらざるえなかったというのが、残念ながらひとつの事例としてご報告せざるえない状況になっているわけです。
 このような不幸な結果や裁判手続きがこれから何か月もあるいは1年2年と続くというのは、決して好ましいことではありませんし、何とか過去の問題は問題として率直に認識して、県民も行政もお互いが納得できるような方法で、同じテーブルの上に出して、そこから出直したほうが県の職員の方も行政をやりやすいのではないか、それから県民の方も納得できるのではないか、と考えております。
 
     情報公開と企業活動
 
 次に、行政機関の情報公開制度と企業との関わりについてお話をしてみたいと思います。まず、情報公開というのは、行政機関(県や市町村)と市民・県民(住民)との関係です。そのことから、企業は関係ないのでしょうと思われがちですが、二つの意味で関係が出てきます。
 ひとつは、企業も情報公開を求めることができる立場であるということです。それからもうひとつは、企業の情報も、たとえば、山形県のある部署には皆さん方の企業の情報が相当部分蓄えられております。その情報が、山形県の保管する情報として、皆さん方の企業以外の人から見せてくださいと請求されて見せられてしまうということもある、ということです。この二つの面で、当面、この情報公開と企業との関わりが出てくると思います。
 まず、第一の場面というのは、情報公開を求めるという立場です。今までの情報というのは、新聞やマスコミが県から取材をして得てきた情報が、マスメディアの新聞とかテレビとかに載って、それを見ることによって、私たち市民も企業もその内容を確認することができるという状況にあったわけです。ところが、これからは、住民と事業者には公開を求める権利があるとされますから、誰でも権利があって市民も事業者も見せてください、このような情報を県で持っているでしょう、あるいは市で持っているでしょう、それを見せてください、というふうに言って行政機関に求めれば、それが原則的に認められるわけです。その費用さえ払えば、そのコピーをもらえるということになるわけです。
 そうしますと、企業活動や事業をどのように展開するかという計画について、非常に重要な資料がそこから得られるのではないかと思われます。事業の企画や展開のための資料、あるいは、ひとつのチャンスをそこから見出だすことができるという意味での有効な活用方法というのがあり、それをできる企業とできない企業とで、その情報についての格差が出てくる可能性があります。
 それからもうひとつの問題は、行政機関が持っている情報でそれぞれの私企業の情報があります。それもほかの人から見せてくださいといわれれば見られてしまう、という恐れがあります。これについては、情報公開の条例とか法律というのは他人事で、つまり一部の情報を見たいといっているようなオンブズマンみたいな人と、県とか行政機関との関係だけであって自分たちにはあまり関係ないと思うのは大きな間違いです。いま行なわれている情報公開に関する県の懇話会でも、ひとつのポイントとして問題となっているのはそういう点です。
 つまり、私企業の情報が、県や行政機関を通じて特定の人や不特定多数人に流布されてしまう、これはおかしいのではないかということです。では、どのような制約をすべきなのか、ということが課題になります。どのような制約をすべきなのかというその制約の要点といいますか、どういう要件があれば見せる、どのような要件があれば見せない、ということが大変重大で、法律や条例をつくるなかで定め方が問題になってきます。いわば個人の情報が情報公開制度の中でどのように位置付けられ、秘密にされたり公表されたりする基準は何かという根本的な重要課題です。
 そこにおいて一般的に考えられているのは、私企業の情報はその情報を提供した企業の了解がなければ見せないというやり方です。こうであるならば、企業として安心して情報を提供できますね。皆さんの考え方としてはその辺が常識的でしょうね。しかし、今の情報公開法も条例も、そういう常識的なラインを相当通り越したところにある、つまり、原則的に全部見せるということなんです。私企業の情報も、原則的には全て見せます。ただし、その企業情報を見せることによってその情報の主である企業が競争上不利益を受けたり、事業活動上不測の損害を受けたり、そういうことになったのではまずいから、そのような恐れがあったりそのような恐れが明らかな場合は見せないことにする。つまり、そういう恐れがなければ全部見せるというのが原則だという取り扱いになります。
 こんな事を言うと、今情報公開の条例を作ろうとしているときに、企業の側からそんな条例を作るなという反対論が出てきそうですけれども、現実にはどこの県の条例でもこれからつくられるであろう法律でもそのような原則的立場を採用していますから、そうすると国の法律が見せなさいといっているのにもかかわらず、山形県や山形市では見せませんというわけにはいかないんです。ですから、この点はやはり今の条例、法律というものの中で、自分の企業の情報がどのように扱われることになっているか、それをよく検討して確認しておく必要があります。できれば、一人ひとりで検討するというのは難しいと思いますけれども、たとえば、金融機関であるとか大企業の方々は、是非プロジェクトをつくってもらって勉強してもらって、そういうこの条例と銀行の取引先の皆様方とどういう関係があるのかという情報を、銀行とか商工会議所などから皆さん方企業に今の段階で正しい情報と見通しを知らしめていただくとこういうことが肝要なのではないかなと思います。
 
     企業の情報管理
 
 それから関連して申し上げますと、情報公開の条例とか法律とか公の場面ではなく企業そのものの情報を企業の判断でどのように取りあつかってどのように開示していくべきなのかという問題があります。これは公の情報公開という場面とは違いますけれども、会社そのものの情報というものが、いろんな場面をつかって公開しなければならない、あるいは、公開とまで言わなくても、株主その他多くの方々に知らしめなければならない、という時代になりつつあります。レジメにも書きましたように、例えば、今までですと、社長だけが持っていた情報について、それを取締役や監査役に開示して、そこでみんなの意見を集約して経営方針を決め、問題を解決していかなければならないということが当然出てきます。これは、本来、法律はそれを予定していたわけですけれども、今まではそのように運用されていないのが実態だっただろうと思われます。また、事業を運営していく主役である従業員のかたにも、必要に応じて開示して、みんなが同じ事実認識のもとに事業活動をしていこうということが大事になります。
 また、株主に対しても同様です。特に、商法という法律では、株主というのは会社の所有者なんです。会社の所有者ですから、株主が情報を見せてくださいと言ったならば見せなければならない、しかし、今までは見せてくださいという株主もほとんどいなかった、そして見せることも現実になかった、そしてそれですんでいた、ということです。しかし、これからは、そのような意識では実際の会社の組織あるいは取引きというものが運営できなくなっていくのではないか、と思われます。この数年間でも、相当大きな波がこの情報公開ないし開示ということについて、いろんな場面でうねりを立てております。先ほどご説明してきましたような、国や自治体の情報公開もそうですし、それよりも企業の中では、もともと法律で商法などの法律で情報公開をしなければならないという定めがあって、株主などにその権利が認められていたわけですから、株主から権利として主張されればそれを開示しないわけにはいかない、そして開示すればその内容をまた説明しなければならない、という義務が発生してくるという問題場面が出てきているわけです。
 それからまた取引先や債権者についても同じです。取引先などからもあなたの会社の情報を、このような情報を見せてくださいと言われれば、それを見せなければ信頼してもらえないということが、そういう場面が多くなると思われます。それからまた企業というのは、不特定多数の市民の方々とかかわりを持たなければ社会に中では成り立たないわけですから、その人たちからも、どのような会社がどのような事業を行なっているのか、それをよく分かってもらうということが大切です。今までは企業からする一方的な広告宣伝の類で終わっていたんでしょうけれども、そうではなく企業というものが社会の中でひとつの公けの機関「公器」としての役割を果たしているんだ、ということになれば、なおさらいろんな市民の方々から企業の情報を知ってもらって自分たちの会社を理解してもらうということが大事になるのではないでしょうか。
 
     コーポレートガバナンス
 
 そして、そのようなことを全部まとめて「コーポレートガバナンス」という言葉で言われております。つまり、企業というものが、いままでは社長が一人で、一人の判断と一人だけの情報管理によって決断して、その決断に基づいて、従業員や役員が動いてきたというのが多くの企業の実態だっただろうと思います。が、そのようなことだけではその企業が正しい判断をできるとは限りませんし、問題が発生したような場合にはみんなで対応しなければならない。そのためにも取締役には全ての情報が開示されるべきですし、それから株主などにも情報の開示は必要です。そして、その情報が開示されれば、いろんな立場の人からいろんな情報を企業が逆に受け取って、その受けとった情報全部を総合して自分の事業の経営のために生かしていこうというのが、このコーポレートガバナンスというものの考え方の基礎だろうと思います。
 そして、その中でもひとつのきっかけとして提案されているのは、株主総会をどのように営むかということだろうと思います。いま、株主総会は、上場とか公開とかされている二千数百社の会社がありますが、その株主総会のほとんど大部分が15分とか20分とかせいぜい30分以内で終わっております。この時間は、営業報告とか決算の報告をして、利益処分案と人事案件を提案して、社長が提案する時間だけでおわりです。あとは「異議なし」と、「はい、異議なしの声がありますので賛成多数と認めます。では次の議案に入ります」と、それだけでおわってしまっているわけです。これでは何のための総会なんでしょうか。せっかく100人200人と大企業の場合には株主が集まってきてくださっているわけですから、そこでどうして株主から情報を得ようとしないんだろうか、また情報を提供しようとしないんだろうか、せっかくの機会を無駄にしているんではないか、と私は大変残念に思っております。これまた私も一人の能力のおよぶ範囲で問題提起をさせていただいておりますけれども、もっともっと多くの企業で株主との接点を広げていくことがこれからの会社、企業の活性化、そしてこの時代が大きく移り変わっている現代において、企業が繁栄するひとつの所以になるのではないかと思います。
 
     株主代表訴訟とは
 
 このような反面で現われている、裏腹の関係であらわれているのが、株主代表訴訟ということです。代表訴訟というのはどういうことかといいますと、ちょっと法律の構造的にもややこしいので図に書いて説明しますと、会社があります、そして会社の運営をするのが取締役、経営をするのが取締役、取締役を選任するのが株主総会、つまり株主なわけです。株主が取締役を選任するということは、ここで会社と取締役の委任関係があるわけです。この会社の運営をあなたにお任せします、というのが株主(の総合体である会社)から取締役に対する委任関係なんです。委任を受けた取締役は、会社のため、それから自分を選んでくれた株主のために、忠実に業務を執行しなければならない、ということの義務が課せられます。これを忠実義務といっております。このような関係があるわけです。
 しかしながら、この取締役が財産を管理したり営業を展開したりする中で、誤った方針を立てて、あるいは自分の利益を得るために会社に損失を与えたり、あるいは法律に違反して、例えば、ここ数年来問題になったのは贈賄です。賄賂を贈って注文を受けようとする、これは会社のためにやったんだといっても明らかに法律に、それも一番厳しい刑法に反しているわけでしょう。そのような違法行為をやる、それから今回の野村証券とか第一勧銀の問題などでも明らかになっていますように、総会屋に現金を供与したり、あるいは、現金でなくともいろんな利便を提供したりということで違法な行為、法律に違反するような行為を取締役がする、あるいは、わざと違法行為でなくとも、例えばよくよく考えればそのような取引きを、会社がほかの例えばA社というところと取引きをするについて、こんな取引きをすべきでないにもかかわらず、取締役の判断ミスでつまり過失に基づいて取引きをした結果、例えばお金を貸したけれども回収できなかった、商品の取引きをしたけれども代金を回収できなかった、その結果会社に損失があった、それは取締役がちょっと注意すればそんなことは防げたはずだと思うような場面があると、株主が取締役に対して損害賠償を請求できる、というのが代表訴訟なんです。
 代表訴訟というなかで、「代表」というのは何の代表なんでしょうか、という疑問があるかもしれません。株主の一人でも訴訟をできるわけです。つまり、千人いる株主の中の一人でもできる、つまり、株主を代表して訴訟をやります、ということです。ここでいういってる代表訴訟というのは。それから、正確には代表訴訟ではなく「代位」訴訟というべきでしょうという考え方もあります。代位というのは、誰かに代わって訴訟をやるという意味です。それは、被害者である会社がほんとうは取締役を訴えなければならないのに、自分で例えば代表取締役社長が他の取締役である個人や場合によっては自分自身を訴えるなんてことはありえませんよね。ですから、会社に代わって株主が訴訟をやるという、この二つの意味を含んでいます。代表訴訟というのは。
 
     株主自身の利益は
 
 ですから、株主自身にとっては1円の利益にもならないわけです、これをやったって。つまり会社に払えという訴訟ですから、取締役は会社にお金を払いなさいと、損害賠償をしなさいというのは、株主に払えというのだったら自分の利益になりますけれども、自分の利益にはまったくならない。会社のために経営をやってくださいと頼んだにもかかわらず、会社に損害や損失を与えた、その損失の原因というのはあなたの故意または過失そういう法律違反、定款違反あるいは経営判断の大きなミス、そういうことに基づいて会社が損失をしたんですから、会社に弁償しなさいというのが代表訴訟ということです。
 この訴訟も全国で何十件もおきているわけです、この数年間。レジメに「8200円の恐怖」と書きましたけども、これはどういうことかというと、昔は代表訴訟を起こすためには、例えば三億円払えという訴訟を起こすためには、三億円に対応する印紙を裁判所に払わなければならなかったんです。自分のためには1円にもならないものを、最初から何十万何百万という印紙を貼らなければならなかった、それはおかしいでしょうということで、自分のためにやっていることではないですから、財産権に関わらない訴訟とか算定不可能な訴訟事件についてはこれを95万円の事件とみなすという法律の規定があるものですから、これでいいでしょう、ということになり、この訴訟額に対応する8200円の印紙で足りることになったわけです。ですから、自分の負担は確かに持ち出しはありますけれども、何百万と自分で持ち出ししなくともこの訴訟をやることができるようになったということです。
 
     会社役員の恐怖
 
 その結果、誰が恐怖を感じているかというと、この取締役の立場の人が恐怖を感じざるをえなくなってるというのが現実です。とくに、公開している企業というのは、誰が株主になるかまったく分からないわけですから、どんな株主がいるのかまったく分からないですね、その人達から自分がいつ狙われるのか分からない、そういう恐怖があります。これが大企業の場合の、公開企業の場合のひとつの問題です。
 それから、最近は公開企業ではなくて、閉鎖的な同族会社の中でも問題が発生しております。というのは、経営者同士の内紛です。それがでてきて社長派、反社長派というのがあって、それで取締役から排除されてしまったとなっても株は持っているわけですよね、相当部分。そうすると、株主としての立場で今の社長はけしからん、ということで排除された元の役員が現在の役員を訴えるというケースがたくさん出てきております。これはこっちのほうが大変、というか、訴えられたほうが難しいですよね。なぜかといったら、訴える側の株主が経営情報の多くを持っているわけですから。株主というのは、それだけでは情報開示請求権があるとしても会社の内部の情報というのはなかなか得られません。これに対して、内紛が起きた場合、それに基づく代表訴訟というのは、これは怖いですよね。逆にいうと、内紛が起きたような場合には、この代表訴訟を手段にして経営権把握について有利な展開をする戦術もありえるということでしょうね。
 
     歴史的変換期の捉え方
 
 最後になりましたけれども、このように情報公開だって十年前にはあまり関係なかった、そんなこと言う人はいなかった。それから代表訴訟だってそうです。十年前には代表訴訟なんて言葉もほとんど、法律の学者や実務家は別にしましても、一般の企業人はそんなことを考えなくてもよかったし、まったく知らなかったわけです。それが、この十年間で大きく変わってきております。そこでなぜそんなふうに変わってきているんだろうか、それは基本的価値観が大きく変わってきているということが背景にあると思います。
 これについては、私の私論というか個人的な考え方をまとめたところを発表しますと、レジメの最後に書いてあるように、昭和20年(1945年)と平成2年(1990年)というのが、それぞれ大きな時代の流れの中でポイントなんです。昭和20年。ここはもちろん敗戦なんですね。敗戦があった。では平成2年は何かと言いますと、この前の年の平成元年1989年の12月29日が日経平均株価が一番高かった日ですね。3万8915円。あとはずっと低迷して今は半分になっていますね、こういう時期なんですね。なぜこのように2つの転換点をもとにして時代を三つに分けるかといいますと、一つは1945年までは国家の時代なんです。1989年までは会社の時代、1990年以降は個人の時代ですね。
 
     時代の3相の転換
 
 これは大きな時代相の変転で、歴史は必ず国家の時代から、会社つまり経済ですね、経済の時代、それから個人の時代へと、移っていくという説があります。この個人の時代の後には必ずまた国家の時代が来るわけです。この三つの時代相が大きく変わっていく。そして1945年で国家の時代が終わったということは、誰の目にも明らかですね。そして次に1990年に相が変わったというのは、株価というと、投資とか投機とか、そういう一部の人たちのものだと考えがちですけれども、決してそうではないですね。株価というのは、会社の値段なんです。だから、上場すると自分の会社の値段はなんぼなのか、と毎日毎日気なるでしょう、上場した会社の経営者は、気にせざるえない。それが会社の値段つまり経済社会からつけられた評価を表わすからです。その会社の値段が半分になった、つまり会社の価値が半分に下がってしまったというのが、この平成2年(1990年)の1月から今日に至る状況なんです。
 そして、いま平成9年(1997年)というのがまさにこの時期にあるわけです。つまり、ひとつ前の相転換期に置き換えますと、いまは昭和20年代に対応するということです、現在は昭和20年代と同じ状況にある、つまり価値観がこれからどう変転していくのか、これから何が皆の共通の価値になるのかがはかりかねている、わからない、混沌とした時代、時期がこの現代だ今だということです。
 このように人生の目的に関する価値観が大きく変わる中で、数十年来の不況だという激動の要素がもうひとつ付け加わったわけです。バブル崩壊の不況だということ。私は、不況も確かにそうかもしれませんけれども、本当の意味での不況ではないと思うんです。だって、皆豊かな暮らしをしてるでしょう。それはなぜ豊かかというと、みんな得たいもの欲しいものは全て手に入れているんですね。そういう一応満足できる状態になってしまっている。それからお金もある、物もある、それは本当の意味での不況ではないですね。だから、このような価値観が大きく変動して、いまから別の価値観が形創られようとしている時代、そこにおいて情報公開の問題も出てきておりますし、今まで行政が持っている情報を見たいなんて思う人は誰もいなかった、だけどもおかしいぞ、おかしいぞって思う人がでてきて、「見せてみな』と言ってみたらやっぱりおかしかった、となればほかのことも同じでしょうという疑問が出てくる。多くの人が所属している会社についても、株主はいままで誰も文句なんか言わなかった、見せろなんていわなかった、社長はよくやってるということで終わってしまっている、それがよくよく見たらいろいろおかしな事をやっているじゃないか、こんなんじゃこの人を社長にしておくわけいかないな、と思うような株主が増えてきている。それが個人の時代の幕開けで新しい価値観の現代なんです。
 その個人の時代というのは、価値観が人によって皆違うわけだから、皆違う価値観を持った人達をいかにして統合していくことができるのか、それが社会や企業のこれからの課題です。今までは、ひとつの価値をもとに手を上げればそこによってきた、だけども今手を挙げたってよってくる人はほとんどいない。これからどうすればいいのだろうか、まったく今までになかったような新しい価値を見出だして、それを育て上げていかなければならない時代だと思います。そのひとつの題材として、この情報公開もありますし、代表訴訟などに端的に現われているような企業の経営のあり方ということもあるということです。そういうことを一つの共通する背景としてとらえていただきたいと思います。
 
     立法政策の方向性の認識
 
 それから、まもなく与えられた時間でもありますけれども、別の視点から今の企業経営と法律政策のあり方の中で、経営者として是非そういう観点も持っておいていただきたいということをひとつだけ付け加えてお話をします。
 それは、国の法律と政策、いろんな政策がありますけれども、それはいずれも法律に基づいてやるわけです。どんな法律を作るのか、あるいは改正していくのか、ということです。それは、企業活動の中で、端的に言えばこういうことなんです。独占を認めるかそれを規制するか、この二つの大きな観点から考えなければならない。今はどっちが基本だと思いますか。独占を認めるような方向、拡大していくような方向にするのか、それとも縮小してなくしてしまうのか。
 規制緩和というのは、今まで自由でなかったから、皆自由に誰でもやれるようにしましょう、というのが規制緩和です。では、規制緩和をみると、みんな独占をなくして皆が自由にやれるようにしましょうというのが規制緩和だとみてしまうでしょう。だけども、そうでしょうか、本当に。本当に全部の規制をなくして、皆自由にやってくださいと言ったらどうなりますか。一番強い企業しか生き残れませんよね。中小零細企業、家業は全部なくなってしまいます。だから、公表されている政策のやり方や説明の仕方と実態とは、結果においてまったく別なんです。今は、どこの国家も独占を認める方向が基本です。これは、誰もが明確に言っているわけではありません。でも全部そうですよ。例えば特許。特許というのは、よく考えれば、特許権つまり有利な地位を独占する個人の権利を大きく認めるということで、それは、特定の人の独占を認めて他の人や企業を排除するということでしょう。特許権を強くするということは。だから、アメリカに進出した日本企業の多くが、特許訴訟でやられてますよね。ほとんどの基本特許はアメリカの企業がもっているわけだから、おまえのところで作るものには特許料を払えと言って、企業活動の利益の大部分はそれで取られてしまっているわけです。今は独占を認める方向に、独占をどんどんどんどん拡大する方向に法律政策が行っている、そういう時期なんだ、ということです。
 
     国策の基本と中小企業
 
 そのなかで、中小企業零細企業というものが、この商工会議所の会員の大部分というのはそれにあたるわけでしょう。その方々がどうやって企業活動を営んでいくべきなのか、その国の大きな政策の中で正しく捉えていかなければならない。では、国はそういう政策を止めたらいいんじゃないか、少し考え直したらいいんじゃないかといっても、これは絶対不可能なんです。なぜかというと、国全体としてそうしなければ、日本国そのものが外国(の企業)に負けてしまいます。例えば、コンピュータや情報通信という先端技術、日本の特許を認めて、それから日本の中で過当な競争をやめさせて、どんどん合併させて、その中の2、3社だけに糾合して、それを大きく強くして、それで例えばアメリカのIBMとかその他のコンピュータ会社に対抗し、立ち向かわせなければ、日本のコンピュータ業界は、国際競争に敗れてしまうでしょう。
 だから、国策としては、有力な企業をどんどん大きくせざるをえないんです。だから、規制緩和とか、みなが自由に平等にしましょうと言っているのは言葉の表面だけ、実際はそれとまったく反対の方向に動かざるをえない、規制緩和して合併を自由にして大きな会社だけ残して小さな企業はなくなってもやむをえない、世界の競争の中で日本国を生き残らせるためにはそうせざるをえない、というのが現代の法律政策に隠された基本的背景です。ですから、企業経営においてはそういう基本も合わせてお考えいただければ、これからの企業としてのあり方がどうであるのか、自分の事業、それから市民として生きる中で何をもってどうすれば満足できて幸せになれるのかということを、それぞれの立場で、個人の時代ですから、共通の公式があるわけじゃなくて、あの人と隣の人と同じようにすれば自分も幸せになれる、という時代ではありませんので、一人ひとりが工夫をして独自の幸せを形づくっていけるように、そして、企業としては、それを十分お手伝いできるような実力をつけていただくようにお願いいたしまして、私のお話を終わりとさせていただきます。
 最後まで熱心にご清聴いただきまして、ありがとうございました。

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