長岡壽一講演録(男女共生)


やまがたファーラ市民会議 講演
   新しい幸せをつくる市民運動
---共生の時代へ、さあ扉をあけよう to be with---

2003(平成15)年8月5日(火)
山形市男女共同参画センター・ファーラ
講師 やまがたファーラ市民会議代表
    弁護士 長 岡 壽 一
         Nagaoka,Toshikazu


 1 はじめに


 それでは、お話をさせていただきます。私は、お配りした資料に書いてありますように、年齢は52歳でございまして、26年ほど弁護士をやっております。弁護士というのが職業ですけれど、その職業とはまた別に、いろいろな市民活動といいますか、グループ活動もいたしております。そんなこともふまえまして、今日は、男女共生を実現するための市民運動について、私の日ごろ考えていることをお話したいと思っております。
 それでは、私の作ってきたこの一枚のレジュメに従って進んでいくはずでありますので、そこに空白の部分を多く作っておきましたのでメモなどにお使いください。


 2 今という時代のとらえ方


 (1) 生きる目的は何か


 最初にまず、人間というのはこの世の中に生きているわけですが、その今までの歴史というものがございます。今現在、どういう歴史の中で私たちが生きているのかということをですね、考えてみる必要があるのではないか。つまり、今自分がどこにいるのかということを、−−−それをまず考えてみましょうということであります。
 その時代は、たとえば江戸時代であるとか、戦国時代であるとかですね、明治とか大正、昭和とか、そういうとらえ方もできますけれども、それは、単にその名前を付けているだけでありまして、一番大切なのは、昔は我々の祖先が暮らしていたということ、そして今、私たちがこの場所に生きているということ、つまり人間が主体だということであります。そうしますと、その生きている人、その人を主体にして物事を考えていくことが最も大切なことです。
 
 「あなたは何のために生きていますか?」、こういう質問をですね、山形大学人文学部で法律の講師をしているときに、学生に、3年生4年生ですが、そういう人たちにこう聞きますと、「えっ?」てね、一瞬びっくりしてですね、なんでそんなこを聞かれるのかということと、そんなこと考えてなかったとというような、そういうけげんな顔をして驚いております。
 だけども、よく突き詰めて考えると、人間の生きる目的というものが何なのかということを、人は、それぞれそれなりに考えておく必要はあるのではないかと思うんです。ただし、これはどれが正しくてどれが間違いだとか、あるいは、点数をつけるとかそういうことでは決してありません。その人にとって、自分のつくった、自分自身に納得できる事柄・価値ということになろうかと思います。
 
 それで、このような観点から振り返って時代を見てみます。その生きている人たちが「どんな価値観を持ってそこで過ごしてきたのか」という観点から見てみようということなんですね。何千年という長い時期を対象として話しても考古学や歴史学みたいになってしまうのでですね、そうではなく、最近の、今からさかのぼって比較的新しいところで考えてみたいと思っております。
 それらを考える場合に、基本はですね、最近は我々の人生を振り返って見ると、結婚式くらいにしか使われなくなっちゃたみたいだけれども、「幸せに」とか言いますね。その「幸せ」というところが、人間が生きていく価値といいますか、目指している目的ということになるのではないかと思います。
 もちろん何をもって、どういうことが実現されれば、「幸せ」になったといえるのか。これはみんな個々人で違います。しかし、その違う中でも共通に人生とは何なのかといったら、それはすべて「幸せ」という価値なんじゃないだろうかと思うんですね。
 例えば、お金が欲しいと思う人は、お金を手に入れれば幸せだと思いますし、子どもが、赤ちゃんが無事に生まれてくればいいと念じている人にとっては、「おぎゃあ」と元気に生まれたということが幸せになるわけですよね。その個別の場面場面で、それから長い数十年の人生の中で、それぞれの幸せというものがあろうかと思います。


 (2) 価値観で時代を分類する


 そのような抽象的な言葉ではありますけれども、まず共通に理解できるのは、人はそれぞれにおいて幸せになろうとして、そのために生きているということですね。その幸せの価値の基準といいますか、何が実現できれば多くの人が幸せを実感できるんだろうか。あるいは、過去の時代において幸せと感じてきたんだろうか、ということを、何十年かの時代ごとに分析してみます。


  @ 第1セクターの時代--- 国、政府・地方政府


 明治時代などはですね、当時は日本の国を「大日本帝国」といっていました。憲法も、「明治憲法」とも言われますが、「大日本帝国憲法」という名前が正式な名称だったわけです。その大日本帝国が強く大きくなることが、その国を構成する民としての日本国「臣民」の一人ひとりの幸せであると考えられていたのではないかと思います。
 その結果、国を強くするためには、武力をたくさん持たなければなりませんね。武力というのは、敵を殺す兵器ですよね。よく考えてみると、自分が強くなっても、その結果その大砲や刀の向いた先にも人がいるわけですから、見方によっては、その人たちの幸せをないがしろにといいますか、なくてもいいと思ったというか、そういうこともいえますよね。
 なぜそんな考え方になったのかというと、それをしなければ、いやおうなくそれをしなければ、自分が逆に命を落とす結果になってしまう。命がなくなったならば、幸せということは絶対に、少なくともその人にとって生きている中での幸せの実現は、不可能になってしまうわけです。
 
 そうしますと、やはり国を強くするということはですね、その国民が幸せになろうと思ってやってきたことではあるけれども、振り返ってよく考えてみると、論理的にもおかしいんじゃないかということ、それはよく考えれば判ることですね。
 だけども、実際に明治初期から大正を経て、昭和20(1945)年まで、七十余年間にわたって、戦争を何回も繰り返してきたわけです。それが、最後には昭和20年の8月15日に無条件降伏による敗戦という結果になってしまいました。自分たちの内部からは、日本国内部からは、その修正が、大きな方針の変更ということができずに、外国から特にアメリカから、武力によって、そのような価値観を改めなさいと、捨てなさいということで、大きな価値観の転換を余儀なくされたわけです。
 
 このような場面、つまり、明治維新から始まって戦争で負けたという70数年の期間というのは、国を大きく強くして、武力をもって、国土つまり国の勢力の及ぶ土地の範囲をもっと広げようと、北にも広げるし南にも広げていこうと、それから西の方にも広げていくということをしていったわけで、富国強兵の政策ですね。勢力を拡大していけば、当然そこに住んでいる人たちと対立がでてきますので、先ほど言ったような問題状況に至ったということです。
 そして、その時代においてもうひとつの視点、見方ができるのは、そのように国を強くするためには、国としてひとつにまとまらなければならないわけですから、みんなばらばらではいけないわけですね。反対勢力がいてはいけない。みんな同じ方向を向いて、まさに一丸となって行動を起こしていかなければならない。そのためには、その国を運営する政府というか、そういう中央の権力機構が力を強く大きく持たなければならない。
 明治憲法といわれる大日本帝国憲法の中では、天皇は、最も大きな権力を持っている唯一の人であるということとされていまして、その国に属する人々は、「臣民」と言われておりました。国民ではなく「臣民」という言葉で、憲法は定めておったわけですね。そのように中央集権で強い国、強い政府をつくっていくというのが、ひとつの手段といいますか、国を強くするための、欠くべからざるシステムであったわけです。その国のなかではじめて人々の幸せが実現されるというのが、当時代の基礎的理解であったと言えるでしょう。


  A 第2セクターの時代--- 会社・事業者


 しかしその後、戦争に負けて、従来の財産や価値がほとんど何もなくなってしまったわけですね。国民の生命を犠牲にしてまで拡げた国土も無くなってしまいましたし、それからもちろん資源もないし、お金もないし、お金は無いどころか、戦争で負けると、「お前のせいでアメリカが損害受けたんだ」ということで、連合国側に賠償しなければならないですよね。その賠償金などの国の債務がかさんで、当時の世界で最悪・最大の債務国になってしまい、この国はもう二度と立ち直れないのではないかと、諸外国から見られた時代が、昭和20年代だったわけです。
 
 そこから、何も無いところから現在まで立て直してきたのは何かといいますと、基本になるのは、会社を中心とする経済活動だと思います。その経済活動を積極的に行なって、展開して、つまり簡単にいえば、会社を強く、会社を大きくして、売上げをのばして、そして、その中から会社員である人たちの収入を確保しようということですね。そうしますと、そこから得られたお金で家族みんなが、物を買えたり、衣食住はもちろん、いろいろなその時代ごとに求められた商品、モノがありますよね。例えば、今でこそ自動車というのは、ほとんど100パーセントに近く普及しておりますけれど、自動車が欲しい、クーラーが欲しい、カラーテレビが欲しいとかね、そういう3Cの時代とか、欲しかった物というのは、それぞれの時代で移り変わっていきますけどね。
 最近ではですね、急激にこの数年間で普及したものに携帯電話など非常に小さな持ち運びできる電子製品があります。通信機能が付いている電子製品があります。それなんかもうね、十年前には考えも及ばなかったような、写真機も付いているし、電話も付いているし、それから電子メールの文字の通信もできるし、録音もできるし、すごいもんですよね。こんな小さなポケットに入るものでね。とても考えられなかったことが現に起きているわけですね。
 
 ところがですね、そういう物を持っている、今使っている高校生は、学校では禁止されているけれども、実際にはみんな持ってますよね。それから20代の若い人たちは、みんな持っていますね。その人たちにとってはですね、欲しいと思った時には、すでにそれは、商品として目の前にあったんですね。我々と言いますか、50代60代の人たちからみると、そんな商品はもともと無かったわけで、私たちが20代とかの時代には無かったわけで、今はすごいなと思いますよね。だけども、若い彼らからすれば、あって当たり前です。だから「隣の人も持っているのだから私も欲しい。」という意識に裏付けられて、実際に急激に、これもほとんど100パーセントに近く普及されてしまったわけですね。
 つまりこの前後の時代というのは、お金によって物が欲しいという時代だった。それによって幸せだと感じられる時代だったんだろうと思われます。


  B それでは現在は?


 しかしですね、今はどうでしょうか。お話しましたような、ここ数年間で普及した新しい電子機器というのは、これは例外でありまして、その他の物というのはどうでしょう。十年前と今とで、自分自身で比較して考えてみてください。この十年間で新しく欲しいものがあって、そしてその欲しいものを買って、「これでよかった、満足だ」というような経験がありますか、みなさん。この十年間で。ほとんど無いでしょう。つまり、新しいもの、欲しいもの、今までに自分は手に入れようと思ったけれども手に入らなくて、欲しくて欲しくてたまらなかったもの、それが手に入ったからうれしい、幸せだということは、この十年間ほとんど経験していないでしょう。
 つまりですね、これはどういうことかといいますと、1980年代までにですね、すでに物としての商品は、自分が欲しいものは、全部手に入れてしまっているんですね。もちろん、例えば、テレビとかあるいは、洗濯機とか冷蔵庫とか、そういう何年かに1回、十年間に1回くらいは買い換えなければならないものはありますよ。だけどまったく新しく手に入れた商品というのは、ほとんど無いでしょう。つまりほとんどの物は、十年前に手に入って、家の中にちゃんと備えてある。車庫には自動車が入っている。それも1台だけじゃなくて2台、3台とね、入っていたりするわけですよ。
 
 そういう時代に、すでに十年前に到達してしまっている。その結果、この最近の十年間というのは、商品を見てもですね、「わあこれ欲しいな。」と「これが欲しいんだけど、お金がないけれど、何とかしたいな。」というようなですね、願望、そういう希望、モノに対する欲求といいますか、そういうものをほとんど感じなくなってしまったんですね。ですから今、物が売れなくて困っている、商売をやっている人はそう言いますけれども、それは買う人がですね、お金がなくて買えないんじゃなくて、買う必要が無くなってしまったんですね。そう考えなければならないし、そっちのほうが不景気の真実の大部分を占めるんじゃないかと思いますね。
 もちろん一部の方については、会社が倒産したとか、いわゆるリストラだとか言われて職を失ったり、あるいは、もっと給料が上がると思って住宅ローンを組んだけれども、給料も上がらない、逆に下がっていってしまっている。それに反して家族の生活費とか、子どもの教育費とかがかさんで家計が大変苦しくなったという人は、相当多くいらっしゃると思います。弁護士の仕事の中でも経験することです。だけども、全般的にみますと、やはりそういう家庭であっても、必要なものというのは、たいていそろっているということですね。おおよそ1990年ころまでにですね。


 3 目指すべき価値と憲法


 (1) 前の時代を受けて


 敗戦から1990年までの45年ほどの時代というのは、会社が強くなれば、大きくなれば幸せが実現できるという時代ですね。お金が得られて物を商品を買えて、買った商品で自分が豊かになれると、いわゆる物質的な豊かさを求めて、それが幸せであるとみられた時代だろうと思います。そしてその結果ですね、その目標が実現しました。ほとんど実現されました。そこで幸せを感ずることが無くなってしまったんですね。何が幸せなのかわからなくなってしまったんですよ。この十年間というのはね。何を目標に今日、明日生きていくのか。お金があれば幸せかというとお金があってもね、使いようがない。そういう時代になりつつあるということですね。
 それで、これからの「幸せ」というものを探さなければならないし、探すといっても、どっかにある、誰かが隠しているというわけじゃなくてですね、どっかに行けば、世界中回って探すということではないですよね。つまり、青い鳥の童話のように、いろんな場所を探していくということではなくて、これはひとつの価値観ですから、自分たちでつくるんじゃないんでしょうか。あるいは、自分自身でそれをつくるということが大切なのではないでしょうか。そのためにどうすればよろしいのだろうか、ということを考えたいということなんですね。


 (2) 憲法における価値の基本


 そこでですね、次に「憲法の本質は?」ということを考えてみましょう。日本国憲法は、大日本帝国憲法と違いまして、国民が主権者であると、このように明示されております。そして、そのためのといいますか、明治憲法とどこが違うのかと言いますと、日本国憲法の3つの特徴と、基本原則ということで言われてますのが、国民主権主義ということと、基本的人権尊重主義というのと、永久平和主義というのと、この3つが一般に日本国憲法の特徴であると言われております。そして、今、この憲法を改正する必要があるのかないのかということで議論されているのは、ご承知のとおりです。
 大学の法学部でも法律の科目で憲法の科目を教わりますが、憲法は、よく考えてみると小学生から教わっているんですね。小学生の社会科の教科書にも憲法とは何なのかということが出てきますし、それから、もちろん中学校でも高校でも、憲法は出てきており、民主主義とか三権分立とかを学びます。ですから、憲法についての知識というのは、20歳にもなれば、みんな共通に基本的理解をしているものです。
 
 しかしですね、私も大学で先生から教わったり、自分で本を読んだり、何回も読んだりして学習しましたけれど、本当の本質、その本質の本質、原則の原則のさらに原理みたいなね、ずうっと突き詰めていったらなんなのか。そのようなことを、自分が生きている中であるいは、職業をやる中で、大人になってからですね、考えることが多いのです。ではそこで、憲法の本質は何なのだろうかと考えた場合に、こういう国民主権とかですね、永久平和とかそんなことではないんじゃないのかなと思ったんです。
 憲法で一番大事なのはですね、憲法13条という規定があります。13条にはどういうことが書いてあるかというと、国民は、個人として尊重されるんだと、つまり個人一人ひとりとして尊重されるんですよ、ということが書いてあります。それからさらに続いて、その一人ひとりが幸福を追求する権利があるんだと、それを国は最大限に尊重していくんだ、個人を守っていくんだということが書かれています。
 つまり、その内容を合わせてみると、国民、日本国の中で生きている私たち一人ひとりが自分の意志と考え方によって自分の人生を選択して営んで、そして、自分がこれこそはと思った目標、つまりそれが実現されれば私は幸せだと思えるような目標を設定して、それに向けて自分が職業の場面でも、あるいはサークルの場面でも、地域活動の中でも、家庭の中でも、そのいろんな場面において自分が幸せになれるような、なりたいと思うような活動をしていくこと、それを実現できること、これが憲法の本質で実現するべき目的だと解釈しております。


 (3) 国民主権や平和主義は手段


 そして、先ほどの国民主権というのは、個人が幸せになれることを支えるための手段ではないかと。国民主権という手段で一人ひとりの幸せを支える。
 また、最初に申し上げましたように戦争をしたのではね、相手を殺せば、自分は幸せかというと、決してそんなことはありませんよね。逆であっても同じですよ。ですから平和を目指し、戦争をしない、これは一人ひとりが幸せになるための絶対的な基礎的条件ですよね。
 それから基本的人権ということも、その自由権であるとかね、生きる権利である社会権とかいろいろな権利が定められておりますけれども、これもやはりひとりの人間が自分が目標を持って、目的を持って生きていくことを、側面から保障する制度だろうと思います。
 
 こう考えますと、三原則、3つの原則といっているけれども、これは、いずれも目的と手段ということで考えれば、個人が幸せになるための手段だということに位置づけられます。そこでこれからですね、一人ひとりの人間が自分の幸福、幸せというものを思い描いて、それを実現しようと努力していくこと、それが大切です。そしてまた、それをすることによって、実行する途中において、やろうとしてもできない場面も当然出てきます。そこにおいて国とか自治体とかが援助していきましょう、あなたが幸せになるために、あなた1人ではできないことを行政などが支援していきましょう、というのが国や行政機関の国民に対する基本的な立場、関係で、責務であろうと思います。


 4 新しい志(目標)


 (1) 女性センターのこと


 ただ、そうは言いましても、人間の関係が、あるいは幸せの実現というものが国との関係だけで決まるわけではありませんよね。先ほどの時代に合わせてみても国の時代、その次に来た会社の時代、会社との関係でも今お話したような幸せの追求ということにネックが出るようなこととか、あるいは解決しなければならない課題というものがあろうかと思います。それぞれの場面で幸せになるための新しいやり方を考えていかなければならないのではないのかと思います。
 
 そこで、例えば、目的と手段ということから考えてみますと、この建物を含むひとつのシステムがですね、2003年3月までは「女性センター」という名称で設置されていたわけですが、4月からは、条例が変更されまして「山形市男女共同参画センター」となりまして、女性というところから男女共同参画という名前に変わったわけです。
 当市民会議では、この3月に市議会議員(候補予定者を含む)にアンケート調査をいたしました。対象としましたのは、53名ですが、これは、現職の議員の方とそれからその当時、4月の選挙で立候補するであろうと、新聞あるいはその他の情報で得られた人たち、分かる範囲内でその人たち53名の方にアンケートをお送りしました。そして、11名の方から回答をいただきました。今日お配りしたこの集計は、その議員の方が書いてくださった内容を、原則としてそのまま書いております。回答者名や固有名詞とか差し支えある部分は伏せてありますけれども、その他の内容は原文のままです。こういう中でですね、女性センターという名前ですと、女性しか使えないのでしょうと、ですから、男性を排除することになってしまうから、いわゆる逆差別であると。女性だけ優遇して、男性を使わせないような施設というのは、基本的におかしいんじゃないか、と書かれている人もおられます。そんなこともあったのかどうかわかりませんが、男女共同参画センターという名前に4月から名称が変更さました。


 (2) 新しい目標を


 そこでですね、今お話したところと、男女共同参画というのをあわせてみますと共同参画というのが何であるのか、例えば、審議会とか委員会の女性のメンバーを3割にしましょうとか、そういう数字の上での分かりやすい目標を立ててそれを実現していくという運動もありますね。それから、いろいろなその行政の企画の中に女性の声が、あるいは活動が反映されるようにしましょうとか、いろいろな目に見える形での行事、あり方というものがこの参画というものに入ってくるのではないかと思います。
 でもこれは、それが実現されることがただちに目的達成ということにはならないですよね。つまり、共同参画というのは、手段なんですね。手段を通り越してその先にある目的・目標は何なのかということをよく自分で考えて、自分なりに理解しておくことが必要だと思うんです。そうでないと、ある会議に呼ばれたから、そこのいすに座っていたから、私は参画しているんだと、あるいは、例えば行政の職員の数が男女半々になったから、これで男女平等なんだとかね、そういう数字とか目で見えるような現象を見て、「これで目標は、目的は、達成された。」と、良かったというように思うことは、表面的な理解に過ぎないのではないかと思います。
 
 さきほど憲法の本質は何なのかということを私なりに考えて述べたのと同じように、男女共同参画と言われる、一般に女性に対する施策というものについて、その本質、その先にある、主体的に手にするべき、獲得する目標は何なのかということを、常に考えていくことが必要であろうと思うわけです。それは、時代によっても少しずつ変わっていきますし、常に新しくなっていくはずです。それらもふまえて、今、何なのか。そして、明日は何なのか、それと昨日はどうだったのか、比較してみましょうということで、日々の認識、理解とか活動の進み方のチェックというものの基準を明らかにしておくとよろしいかなと思っております。
 端的に言いまして、男女参画という手段を通じて、結果的には、女性も男性も性別を乗り越えてみんな幸せになりましょう、ということですよね。簡単に言えばね。そんなの当たり前でしょうと言われるかもしれないけれど、その当たり前のことが意外と意識の中から抜けてしまったりするものですから、もう一度再確認しましょうということですね。
 それで先ほどからお話していることを今日から明日へ向かって私たちは、今、どんな生き方をしていくかによって、どんな価値観を持つことによって、幸せだと感じる人生がかたちづくられるんだろうかということが、今日のメインテーマになるわけですね。


 5 幸せになるために


 (1) 幸せへのお手伝い


 今、私の名刺をおあげしました。これは数日前に新しく改訂して印刷したものです。私自身の仕事は何なのかということを、その本質とか、私が何を目指すのかということをずっと考えて詰めていった結果を、端的に表示したものです。
 名刺の裏を見ますと、「相談と講演」ということがあります。つまり、相談というのは、法律相談とか、困っていることとか、あるいは、何かやりたいけどもどうすればいいだろうかという要望を聴くというような意味での相談ですね。それから講演というのは、今お話しているようにですね、他人に私の考え方をお伝えするということです。
 それから次にですね、「新しい幸せを」と書いてあります。つまり、弁護士の仕事を通じて、相談者とか、依頼者の方たちに、幸せという状況を実現すること、それが私の仕事ですというメッセージです。
 いろんな相談者がいますが、例えば、サラ金で何百万と借金をしてしまって、もう夜逃げするか、自殺するか、家族はばらばらになりつつある、どうすればよいのだろうかと本当に切羽詰った、人生を賭けたような立場の方もいます。最近は、破産する人が20万人を超えるなど、そういった方が多くなっているわけです。
 それから、いろんな課題といいますか、問題といいますか、解決しなければならない場面を、人間関係の中で持っている。それを自分の力では解決できないから弁護士に相談して、知恵を借りたり、あるいは、代理人として裁判手続きをしてもらったり、相手と交渉をして欲しいという依頼をされる方も多いわけです。
 そういう人たちが私に求めること、そして、私が提供できること、広い意味でのサービスというのは何かというと、その目標は、結局、私を頼ってくださっている方が幸せになれるような、今幸せでない場面があるわけで、それを解決して幸せになれるようなお手伝いお役立ちをしたり、さらに、私自身が積極的に、主体的に行動して、その場面をつくり出したりということが、私の仕事の全部に共通する本質であると思ったわけです。


 (2) 一緒に取り組む


 幸せになりましょうと、なれるんですよと、あなたは、やり方とか決断というものができないだけなんですよと。それをやりましょうよということです。そこで実現しようとする幸せはですね、昨日あった幸せを取り戻すというのではないはずですね。つまり、今まで自分の人生の中で経験してこなかった別の幸せの場面をつくり出すということだろうと思うんですね。それは、つまり「新しい」幸せということですね。新しい幸せをつくっていきましょう、依頼者、弁護士と事務所事務員、その他の関係者が一緒になってつくっていきましょうと。それからもちろん本人の家族、いろんな関係者の方、職場の方とか支援者なども一緒になってやりましょう、ということです。
 ところで、この実現しようとする目標は、1人では絶対につくれないんです。そこで、名刺にはその後に「to be with」と書いてあります。これは一緒にという意味なんですね。つまり、一緒に意志と力と合わせてそれをやりましょうと。誰と一緒にやるのかは、その場面場面で違ってきます。ですから、このように1人で悩んでいただけでは、本当に良い方向ではなくて、悪い方向にいってしまいます。そうではなく、一緒にやることによって、力を合わせたり、ないもの足りない部分を補い合ったりすれば、新しい幸せをつくること、手にすることができますよ、ということが、私の職業の本質であるとあると考えて、このように名刺を作り直したんです。


 (3) 法律と別の視点


  @ 問題の原因は心に


 その中で、名刺から弁護士という肩書きを取ってしまったんです。前の名刺には「弁護士 税理士」と書いていたんだけれども。つまり、弁護士という肩書きをつけてしまうと、相手は、これをもらった人は、弁護士ということの中でしか物事を考えられないといいますか、その範囲でしか頼れない、求められない、そういう狭い思いになりかねないのではないか。しかし、法律というのは、確かに重要な規範で解決基準ではありますけれども、あくまでも課題解決のための一つの手段方法なんです。すべてではないわけなんです。
 例えば、サラ金で困っている人に破産法などの法律を適用したら、さっと自動的に幸せになれるのかといったら、そうではないですよね。だって、サラ金で失敗している人というのは、今の困った現象というのは、もともと自分が原因をつくったものでしょう。すべて自分が借りてしまったわけです。だから、そんな無謀に借りるような性格とか、人生設計、金銭感覚というもの、心の中から出てきたものを、もう一回心の奥底まで入っていって、そこを改善しないいけない。そこを変えないと、自分の金銭管理とか職業に対する考え方とか、家族に対する考え方、すべて関連しているんです。それを全部やらないと本当の新しい幸せは、実現しないんです。


 A 法律は手段にすぎない


 だから、弁護士に頼んで破産してくださいといって破産手続きすれば、それで表面上はすむかもしれない。だけども、それでその人と家族は本当に幸せになったんでしょうか、と問うたら、私は、違うと思う。弁護士の仕事というのは、破産手続きなら裁判所に手続きをして、裁判官から破産決定を受けて、そして引き続いて免責といいまして、払わなくてもいいという決定を受けて、そして、あなたは、これで借金500万がゼロになりましたよと、おめでとうございますと言ってやることだけでいいんだろうかということです。もしかすると、本人は、「あ、こんな簡単なことか。」と、今度はもっとうまくやってやろうと思ったり、自分はもう借りられないから、他の人に頼んで、その人も弁護士に頼んでやれば、簡単に500万程度の債務が無くなっちゃうんだ、というような悪巧みを考えないとは限らないでしょう。それではその人がまともになったり幸せになったとはいえないですよ。だから、法律はあくまでも解決策の一部分に過ぎないんじゃないのかと思います。


 6 希望に向かって


 (1) 新しいものをさがす


 そこで今お話したように目標や目的は、今までにない、経験したことのない、この部屋の中を探しても、あるいはこの建物の中を探しても、山形県内をずっと探しても見つけることのできない、新しいもの、新しいこと、新しい幸せというものをつくる。そのことが今私たちにとって、大切なこれから歩むべき目的、目標になってくるのではないかと思います。半面から見ると、どこを探しても、どの本を見ても書いていないから、みんな不安になるわけです。そこで、それをつくるには、あるいは見つけるには、どうすればいいのかということを、次にお話したいと思います。
 こういうお話になってくると、ある意味ではね、宗教がかっているんじゃないかとか言う方もいらっしゃいます。確かに、宗教も同じような目的のもとに、困っている人、悩んでいる人に対して教え導くようなことだろうと思います。しかし、私はですね、誰かに頼るのではなく、自分自身で、それから、自分たちの仲間でやれること、そして、やるべきことについて、あまり宗教とか教義とかには関係なく、お話するつもりですので、お聴きいただきたいと思います。
 
 先ほどもお話ししましたように、物、形になっているモノというのは、ほとんど私たちの手に入ってしまっているわけです。満たされてしまっている。そこで、満たされた結果、不況だとか、不景気だとか言われてますよね。この不景気はずっと長く続いてまだまだ続くんじゃないかとか言われています。ここでも、その不景気を解消して景気を良くするにはどうすればいいのか、という話が商売やっている人とか、事業やっている人は、考えなければならないわけです。事業を営む会社に勤めているサラリーマンも、当然それを考えていかなければならない。山形市役所に勤めている行政の職員もそれを考えていかなければならない。なぜかというと、事業をやっている人が次々と倒産したのでは、経済が回っていかなくなるわけですし、そんな、対策ばっかりね、悪いことに対する後ろ向きの対策にばかりお金を費やしていたら、入ってくる税金もなくなってしまいますから、山形市の財政自体が成り立たなくなっていきますよね。ですから、みんなが景気をよくしようというのは、共通の希望なわけです。


 (2) 不景気と新商品


 では、どうすれば景気が良くなるかといいますと、これは、先ほど言ったことから皆さんお判りになると思うんですけれど、たくさん物を作って安く売っても、売ろうとしても、家庭や個人にはすでに物が十分あるわけですから、例えば、腕時計ひとつにしても、10個も20個もいらないわけですよ。指輪を何個したって、指は10本しかないわけだから、それ以上つけられないわけだですから。だから、もうすでに満たされているわけですから、その値段を安くしたとしても、買う人はいないということなんです。いくら安くても買う人はいないということは何を意味するかというと、今までになかった商品をつくること、新商品をつくること、新商品を作って売り出せば、必ず売れるんですということなんです。
 お金を使って何か買いたいと思うのは、人間の本質的な欲求です。今、その欲求が満たされないのは、いくらデパートを探しても欲しいものがない。あるいは、スーパーに行って、--あんなにたくさん品揃えされていますよね--そこで買ってくるのは、その日あるいは明日食べる食糧は買ってきますけれども、それ以外のものは、とりたてて欲しいものはないですよね。だから、高い安いに関係なく、物は満たされています、新たな購買意欲はわきませんということなんです。
 それから、仕事についても同じです。職業ということについても、いままでのすでに存在する職業に就いたとしても、そのパイといいますか、その職業の中で、事業活動の中で得られる財産や価値は限られているわけですから、そこにたくさんの人が今まで100人の人が従事していた事業所に150人参加してしまえば、結局共倒れになってしまいます。ですから、同じ場面で、同じ製品や商品、同じセールスをしている中に多くの人が参入したのでは、みんなが倒れてしまう。こういうことが言えます。
 同様に、農業でもそうでしょう。例えば、ラ・フランスが儲かるぞというと、多くの人がラ・フランスの樹を植えます。しかし、その木に実がなる収穫時期は何年か後でしょう。その収穫できる何年か後になるとどうでしょう。そこから振り返ってみると、10年前はラ・フランスはこの地域に100本しかなかった希少価値があった、でも今になったら--10年たったら--、木の数は10倍にもなっている、他の地域も同じようだ。こうなるとみんな共倒れになりかねません。サクランボについても、そういう傾向が指摘されています。
 だから、今ある事業とか、仕事とか職業とか物とか、それらに、みなが一斉に寄っていくのは、決して新しい幸せをつくることにはならないと言えます。


 (3) 価値観の源は「志」


  @ 動機付け


 そこで、その新しい価値、--幸福というのは価値観で、目に見えないものです--そういう「新しい幸せ」の価値観をつくる、それを、どうすればいいのかということを考えてみましょう。
 今お話しているようなことはですね、この「志」つまり、何かをしようというという、自分自身にとっても、それから人にとっても、家族にとっても、地域にとっても、職場においても、山形市においても、日本においても、世界全体にとっても、よいことなんだと、こう思うようなことを、それをやろうとする気持ちをね、広い意味では「志」と言っていますね。1つは、その「志」を実現する方法、実現するやり方というものを分かることが大切だと思います。
 それから、もちろんその「志」そのものを持つということが大切です。「志」を持つためには、人からお話を聴いたり、自分でよく考えたり、本を読んだり、そういう動機付けというものがあります。動機付けを常に繰り返し繰り返ししていくこと。つまり、人の話を聴いて、「あぁこれは、すばらしいことだ。」と思うことがあります。だけども、その聴いた時は一時的にそう思ったけれども、一週間もするとほとんど忘れてしまうんですね。つまり、動機付けは、一週間でなくなっちゃうんです。一年もしたら、そんなことを聞いたかどうか、それすらも忘れてしまうことが日常的に私たちが経験することで、私自身も例外ではありません。
 ですから、動機付けは、毎日毎日ですね、繰り返ししていかなければならない。例えばそのためには、よく小学校とか中学校とかで、標語を書いて壁に貼ってますね。それは、今年の目標は、こういうことを実現しようと学級で決めて、決めっぱなしだと1週間もすると決めたこと自体も忘れてしまう、中身も忘れてしまうということになるために、そうならないためにも、毎日毎日思い起こすために、紙に書き出して標示しているわけです。


  A 山形市民憲章の例


 山形市でもつくっているでしょう。「市民憲章」というのを知っていますか。山形市民憲章というのがあることをご存知の方、手を上げてみて。じゃあ、知らない、そんなのあるとは知らないよという方は?山形市民以外の方もいらっしゃるかも知れませんけれどね。まあ、だいたいの方は、知っていらっしゃる。じゃあ、市民憲章をしゃべれますか。はい、私は、市民憲章をちゃんと言えますよという方いらっしゃいますか。--いないようですね。
 前文があって、ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつと、5項まであるんです。知らないですか。やっぱり、なかみは知らないですよね。これ、なぜ知らないかというと、つまり、存在することは分かっているけれども、内容を知らないということを分析してみましょう。以前どこかで何かの機会に、市民憲章があることは知ったわけですね。つまり、それを動機付けとすれば、動機付けはされたけれども、それを実現するような、その動機が毎回毎回繰り返し頭の中にインプットされて、そして、それを覚えてそのとおりあるいは、それを目標にといいますか、あるいは、それをひとつの行動基準として、歩んでいこうというような気持ちが体の中につくられなかったわけです。
 
 山形市民憲章というのがつくられたのは、約30年前です。私もその作成の事情はよく知らないのですが、市役所の中や、最上義光記念館の前の公園、殖産銀行本店の向かい側の角の碑に書いてありますね。
 なんて書いてあるかというと、「わたくしたちは、樹氷とべに花の里山形市民です。」こう書いてありますね。「誇りと責任をもって五つの誓いをいたします。」これが前文です。「樹氷とべに花の里山形市民」です。「誇りと責任をもって五つの誓いをいたします。」市民として誓ったんだけれども、いつの間にか忘れたとか、一回しか誓わなかったからほとんどの人が覚えていないわけです。
 
 さらに本文には、ひとつ「すすんでまちづくりに参加し、明るいまちをつくります」。つまり、まちづくりに、積極的に参加していくんだよということですよね。まちづくりに参加するということは、一人だけではできない場合が多いですから、人と一緒に、地域の人たちと、あるいは、職場の人たちとか、家族などでもね、市民がグループをつくって一緒にやりましょう、という意味を含んでいるのではないかと思います。
 それから、ふたつ「きまりを守り、親切であたたかいまちをつくります。」と書いてあります。つまり、約束事を守っていきますと。それだけではなくて、約束事を守るというのは、当然のこととして、ルールを守ることを当たり前のこととして、人と人の関係、人間関係もあたたかみをもって接していきましょうということが書いてありますね。
 みっつ「働くことに喜びをもち、活気あるまちをつくります。」と書いてあります。働くことに喜びを、つまり、職業というものを大切にしますよと。そして、それだけではなく、活気あるまちをつくりますと。
 よっつ「自然を愛し、緑と水のきれいなまちをつくります」。自然というものを大切にして、その中の代表的な、緑というのは、樹木とか、草とか、花とかそういうものですね。水というのもやはり、ひとつのバロメーターですね。水をきれいにしていきましょう、大切にしましょうということですよね。
 いつつが最後ですが、「老人にはやすらぎ、若者には夢のあるまちをつくります。」とこのようになっています。つまり、お年寄りも、若者もそれぞれにこのまちをつくっている、いわば、一緒に住んでいる協働者なんだということですよね。これが、山形市民憲章です。


  B 繰り返しが大事


 私は、いま何も資料を見ていないです。つまり、市民憲章の内容を全部覚えていて話しました。なぜ覚えているか、不思議に思われるでしょう、不思議ですね。私は、40歳まで山形青年会議所というまちづくりの市民団体に入っていたんです。山形青年会議所では、11年あまり会員として活動していました。そこでは毎月2回例会をやるんです。例会の始まりに、山形市民憲章を唱和するんです。だから、ちゃんと暗記していて、リーダーがね「市民憲章」というとね、みんなで、「私たちは、樹氷とべに花の里山形市民です。誇りと責任をもって五つの誓いをいたします。」とみんなで声を合わせて斉唱するわけです。それを毎月2回、10年以上やってきたわけです。
 JCは40歳が定年で退会しますので、私は、それを卒業してから12年経っていますが、30代に何度も間繰り返しやってきたことは、今も身について覚えているんですね。40過ぎてからは声に出して人前で言ったことはないですが、今も記憶に残っているんです。先ほど言った動機付けというのと、それを繰り返し実践すること、これはと思った基本的なことを自分で、暗唱したり、紙に書いて貼っておいたり、そういうことが大切かなということで、ひとつの例としてお話をしました。


 (4) 異質の人と


  @ 志を同じくする


 そして、そのような「志」というものを持続しようということになりますと、1人の力だけでやれるということも、もちろんありますが、何人かのグループになって、力をあわせた、あるいは、1人の力では不足しているものをお互いに補ったりして大きな力を持ちましょう、力を発揮できますよという場面があります。
 今日のテーマに「新しい幸せをつくる市民運動」という言葉がありますが、その市民運動は、市民と運動という2つの言葉に分かれます。新しい幸せをつくる、というのがその実現目標であるとすればですね、市民運動ということがその手段、手段のひとつだと、そういうことが道筋のひとつになるのではないかと思います。
 そこで、市民運動というのは、一人だけで何かをやるのではなく、同じ志を持った人が集まる。同じ志--それはまったく同じことを考えているということではなく、個人個人としてはみんな違うんだけれども、志は同じ方向にあるという人たち--が集まって活動をしていきましょうというのが、この市民運動だと思います。
 
 ここで、今までになかった価値、新しい幸せをつくるためには、今までなかった新しい力を発揮する必要があると思います。今までと同じ人たちが、同じやり方で、同じ組織でやっていたら、新しいものは決してつくられません。そこで、新しい力をつくるために、どうすればいいのかということです。
 これも、理屈は簡単なんですね。言うのは簡単なんです。ひとことで言うと、異質、--年齢、性別、職業、経験、地域など--質の違う人が結合すれば、一緒になれば、そして、ひとつの志に基づくグループをつくれば、そこで新しい力が必ず生まれます。
 ところが、そうはいっても、現実にはこれがなかなか難しいのです。つまり、質の違うということは、あの人は嫌いだとか、あの人が入るんだったら私は抜けるとか、そういうことで一緒にやることが大変難しいのが人間社会でもあるんです。これもひとつの本質です。だから、ここをどうやって乗り切ることができるのか。そこを解決し、その課題を解決できれば、その人、そして、その人が所属するグループが、これまでに経験したことのない新しい力を持つことができます。


  A ペアシステム


 そこで最後に、ペアシステムということをお話します。簡単にいえば、新しいことをするために2人が組んでみましょう、ということなんです。それも異質の2人が組みましょうと。同じ考え方をもって、いつも仲好しだという人が手を組んでも、ほとんど新しいものは生まれません。女性の方だけの集まりは、私が見るかぎり、仲良しクラブなんですね。仲のいい人が何年もお付き合いしている。そこに、異質な人が入ってくるという場面が少ないようです。そうなりますと、外の情報が自分に見えなくなってしまいます。
 それよりも、今までに、例えば会ったことのない人、しゃべったこともない人、一番端的な例は、外国人ですね。日本人と外国人は、どこの外国人でもこれはまったく違いますよね。そういう人と一緒になって話をしてみる。同じ「志」について話をしてみる。それから、外国人というのは極端かも知れませんが、年齢の違う方、60代、70代の方と、20代の方、これは相当価値観が違いますから、話しても話が合いませんよね。合わせたふりをしているだけで本当は合わない。わけがわかったようにお互いに表面上はやっているけれども、それは遠慮して分かったように装っているだけで、本当は分からない。
 そこで私たちは判り合えていないんだということをお互いに理解して、遠慮しないで、私たちは分からないんだから、分からないところを乗り越えて一緒に分かるようなことをやりませんかということで握手をし、一歩前に進むということができるかどうかが課題です。それができると、今までにない新しい力が出てくるんです。
 これでお話を終わりますが、ご清聴に感謝し、みなさんの新しい幸せづくりの参考になればありがたいと思います。


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